随分前からツイッターやツイキャスでは語ってたんですが、まだブログにしていないネタを。脈絡的に必要になってきそうなので。
そもそも挨拶って何のためにある?
って話はブログでしましたっけ?憶えてないので、書いておきます。
「こんにちは」という言葉自体には何の意味もありません。本来なら「こんにち(今日)は」の後に「ご機嫌よろしそうですね」とか「良い天気ですね」などと続いて、ようやく意味を成しますが、今では最初の「こんにちは」という主語の部分を取り出して、挨拶として利用しているわけです。
では何の意味もないこの言葉を交わす意味はどこにあるかと言うと、「貴方がそこにいるということを私は認識しております」という表明です。当たり前のことをわざわざ言語化するとややこしく感じる好例ですね。
もっと簡単に言えば、「挨拶」の反対にある行為は「無視」です。これまた言語化してしまうと「物理的にそこにいることは認識できるが、いないものとして扱う」ということになります。
さて、挨拶は面倒くさいからといって、知人から無視されることを快く思う人っているでしょうか。ほとんどの人はそこに嫌悪感を覚えるはずです。
ただ道を歩いていたら偶然知人と会っただけ。別に話したいことがあるわけではないが、社会的動物である人間にとって「無視」は特別な(悪い)意味を持ってしまう。だから我々は「今貴方を認識しました」という最低限の相互承認をするのです。
「こんにちは」の後に「今からどちらへ?」「10月だと言うのに暑いですね」などと会話を繋げるのは自由ですが、それがなくともとりあえず「こんにちは」とさえ言っておけば相互承認は成立し、人間関係を維持できることになります。
人間関係を維持するための最低限の相互承認、これが最も基本的な挨拶である「こんにちは」の正体です。
「プロトコル」を合わせることの大切さ
さらに、敬語その他の礼節はより高度な人間同士の交流を実現してくれます。
コンピュータネットワークには「プロトコル」という概念があります。これは相互に通信をするためのルール(フォーマット)のことであり、階層構造になっています。例えば、最下層には0か1のデータのやり取りをするための物理層があり、中間あたりに我々が「インターネット」と呼んでいる世界規模通信網の基本である「TCT/IP」というプロトコルが通信の基本単位を決め、一番上にはウェブサイト(WWW←あ、笑ってる訳ではありません。ウェブサイトの本来の呼称です)の書き方(HTTP)なんかが決められています。こういったフォーマットを守ることによって、我々は遠隔でファイル転送が出来たり、音声通話ができたり、LINEやツイッターなどのSNSが出来たり、あちこちのウェブサイトを見たりすることができます。
同様に、人間同士が交流するにもプロトコルが存在します。例えばそれがビジネスの関係であれば、「名刺」というフォーマットに自己紹介情報を書き込んで、自分の名刺は右手で渡し、相手の名刺は両手で受け取る、と言ったルールをお互いが守ることによって、それまで全く見知らぬ者同士が交流できるようになります。
なぜ突然知らないヤツからタメ口でリプをもらうとイラっとしてしまうのか?それは、「日本語を使う」という基本プロトコルは共通していても、「見知らぬ者同士はまずは敬語」という中間あたりのプロトコルが共有できていないからです。
さらに高度な人間同士のプロトコルとなると、「言葉の定義を合わせる」とか「論点を絞って質疑応答する」といったことになるでしょう。
コミュ障は礼節を武器にせよ
さて、世の中には「コミュ障」と呼ばれる特性を持った人たちがいます。「コミュニケーション障害」という言葉自体は本来医学用語で、割と狭い定義があるのですが、ここで言う「コミュ障」は医学上のコミュ障を包含したもっと広い意味でのそれ、つまり我々が日常的に使う「コミュ障」のことです。
例えば吃音がある、例えば相手の感情を読み取るのが下手、例えばボキャ貧、例えば対人恐怖症。コミュ障にもいろいろありますが、「本当はもっと人と話したい」という欲求さえあるのなら、たとえ完全ではないにしろ、健常コミュ力に近づくのはそれほど難しくはないでしょう。コミュニケーション欲求そのものがない人は、コミュ障というより「コミュニケーション嫌悪症」≒人間嫌いということでしょうから、別に困ってもいないのでしょう。ではどうやって健常コミュ力に近づけるのかと言えば、礼節を弁えること、です。
礼節というのはつまり先述した通りで、「親しくない間は敬語を使い、ちゃんと挨拶する」というのが基本作業であり、これはできるかできないかではなく、「やるかやらないか」の問題になります。
そして、人間と言うのは、鮮やかに言語化できる人間に尊敬の念を抱くのは当然ですが、もう一方では、不器用だけど遜(へりくだ)って誰かと交流しようという他者に冷たく接する人はあまりいません。それどころか、不器用さは礼節を伴うことによって「愛嬌」という武器にもなります。
ドラマ『裸の大将』の山下清(オリジナルはちょっと横に置いといて、ドラマ上の話です)は、ASD(昔で言うアスペルガー症候群)、知的障害、吃音という、コミュニケーションにおいて重大な障害になる要素を複数持っていましたが、少なくともドラマ上の山下清には向こうから勝手に人が集まり、誰彼となく世話を焼いてくれます。それは彼が、飢え始めた時には自己紹介+「おむすびください」というパワーフレーズで礼節を実行できたからでしょう。
X(旧ツイッター)を観察していても、自己完結の発信者にはイイネが付きやすくともリプは付きにくく、他方表現が不器用な人にはリプが付きやすい傾向が見て取れます。
この話はまだ前半で、この後「私がブロックしない理由」「クソリプは宝」みたいな話に繋がります。一旦ドロンします。
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