「言葉は生き物」で日本語の誤用を許してはいけない

学術

言葉のお話。

時代によって言葉が変化する現象を「言葉は生き物だから」と肯定する意見があります。

が、それは一部において正しいけども、別の側面から見れば強く否定すべきものです。

 

例えば、「それがし」が「わたくし」に変化するのは、正常な変化です。

しかし、「とても」が「超」、「納金」のことを「課金」、なんでもかんでも「ヤバイ」となるのは【異常な変化】であり、もしこれが生物なのだとしたら、無秩序な遺伝子操作で生まれたキメラと言ったところでしょう。

ではこれらがなぜ異常なのか?

共感はできても説明はできないという人が多いと思います。それを説明します。

 

言葉とは言うまでもなく、コミュニケーションのツールです。

そして言葉がコミュニケーションのツールたりえるのは、言葉が概念として成立していることが大前提です。……と書くとちょっと難しいですね。

つまり、「あたたかい」と言えば「程よく温度が高い状態」という共通の観念を個々が持つから、それが言葉として機能するわけですよ。

あ、ついでなのでここで触れておきます。「固定概念」と言う言葉を使う人が増えていますが、そんな言葉は意味として破綻しています。使いようによっては正しいのですが、多くの人は「固定観念」の意味で使っています。「観念」は個人のもの、「概念」は集団のもの。つまり、「概念」は、相当長期的でない限り固定的なのが当たり前で、わざわざ「固定」を付ける必要がないのです。

 

つまり、「あたたかい」の意味が個人によって違っていたら、それは言葉として機能しないわけです。先の投稿で例示した「課金」「フレンチキス」などはその典型例で、「課金」なんかは今ほぼ100%真逆の意味で使われているため、言葉を正しく使おうとする人までがこの誤用を使わざるを得なくなっています。そして、この誤用を新しいスタンダードにしてしまうと、本当の意味の「課金」を使いたい時に使えなくなるわけですよ。

 

許容すべき誤用

一方で許容できる誤用というのもあって、例えば読み間違いなんかは割とどうでも良い話です。例えば「独壇場」は本来「どくせんじょう」ですが、そう読む人はほとんどいませんね。だからと言って特に困ることもない。「消耗」も本来の読みは「しょうこう」ですが、こちらは「独壇場」以上に知られていませんし、パソコンで変換しようとしてもかなり後ろの方にしか出てきません。「他人事」は「たにんごと」ではなく「ひとごと」と読みます。

しかしこれらの誤用は「課金」のケースと違って、特に失うものはないのです。字の構成から言っても「耗」を「もう」と読みたくなるのは自然ですから。だから許容できる誤用、となるわけです。

 

ボキャ貧問題

「ヤバい」なんて言葉は、正用か誤用かという問題の範疇ではなく、単に「ボキャ貧」なんですよね。と言っても、昔はなんでもかんでも「すっげー」と言う子供はいただけで、その表現が変わり、さらに少し意味を広げたのが「ヤバい」となったのでしょう。

40歳を超えたアイドルなんかが美味い物食って「これヤッベ」なんて言う光景は目を背けたくなります。

では、この「ヤバい」に感じる嫌悪感の正体とは何なのでしょうか。言い換えると「ボキャ貧」の何が悪いのでしょうか。

端的に答えてしまうと、この「ヤバい」は「言葉」ではなく「鳴き声」なんです。80年代、若い女子は「えー、うっそー、やだー、かわいー」だけで会話ができると揶揄されました。それが女の子らしい振舞いであり、ある人は天然で、またある人は故意に、つまりぶりっ子でやってたわけですよ。

おじさん達はこういう若い娘を可愛いと思うと同時に、強烈な違和感を覚えていたのです。同じようなことは今でも言えますが、彼女らが何を言ってるか分からないし、こちらが言ってることもなかなか通じない。違う動物のようなものなのです。

このような、いわば「女子しぐさ」は若い女の子だから許されるものであって、大人になったらそれなりのボキャブラリーを身につけなければいけません。ボキャ貧に抱くイライラ感は、同じ人間なのに話がまともに通じ合わないことに原因があります。

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