この投稿のほとんどは参院選よりはるか前に書き上げていたもので、選挙後に一部修正して投稿することになった。
橋下徹の大阪府知事当選を起点とするなら、私はかれこれ17年間「維新」の支持者をしてきたことになる。政治そのものに関してはかなりの晩熟(おくて)の類だが、維新の支持者としてはオープニングメンバーである。
その維新支持者を辞めたのは、橋下氏退陣以降、私の予想通り、維新が悪い方に進むばかりで改善の気配が全くないからだ。奇しくも最後の引き金は万博だった。
この辺、詳しくは別の投稿で。
今の維新は悪い意味での「ネオテニー」である。
生物学では「ネオテニー」という概念がある。進化の結果、本来は幼体(子供)にしかなかった特徴を成体(大人)になっても持ち続ける種のことだ。気を付けなければいけないのは、これは「種」の話であって「個体」ではないという点だ。つまり、「子供っぽい大人」のことではなく、「大人になっても子供の特徴を残している種」のことである。
最も身近な例で言えば、オオカミが齢を重ねて見た目も性格も分かりやすく老いていくのに対し、イエイヌ、特に小型犬は15歳の老犬でも見た目やしぐさが幼犬に見えることがある。人間もそうで、近縁霊長類が成体になると顔がゴツゴツし、体毛が増えていくのに対し、人類は大人になってある程度毛深くなるにしろサルほどではない。
ネオテニー自体は生存戦略としてそういう遺伝ルートを採っただけであって、良いも悪いもない。敢えて言うなら「遺伝的柔軟性を残している」「他者に可愛がられやすい」のが利点であり、「自立心が芽生えにくく、依存心が強い」のが欠点、と言った見方もできよう。
私は旧民主党政権誕生の際、まさにこの「ネオテニー」を感じた。当初は「若さ」「柔軟性」という良い意味でである。ところが党代表が鳩山由紀夫のまま選挙に突入したので、そのネオテニーは「幼さ」「未熟」「暴走」「勘違い」という予感を私に与えて、投票には至らなかった。で、その民主党政権がどんなものだったかは皆さんがご存じの通りだ。
翻って維新の歴史を見ると、(あくまで個人の感想だが)最初は良い意味での、それこそ「若さ」「合理主義」「力強さ」があったのだが、今の維新は「幼さ」「主体性のなさ」「依存心の強さ」という悪い意味でのネオテニーが目立つ。
この文脈上におけるネオテニーとは真逆の概念が「老」である。「老」にも大きく2つの意味がある。ひとつは字源そのまま(腰が曲がって杖をついている老人)で「生物が死に近づいている状態」であり「力を失いつつある個体」のことだ。今ひとつは「経験を積み、冷静に判断を下せる大人」のことである。「老中」「大老」「老練」に使われる「老」は「老いぼれ」ではなく「成熟」を表している。現役を引退して運営に回った元力士は「年寄」と呼ばれる。
「ネオテニー」と「老」は、どちらにも良い意味と悪い意味があり、その両方の良い面を持っていたら最強、両方の悪い面を持っていたら最悪である。
今の維新は、悪い意味でのネオテニー(幼い、拙い、無責任、依存気質)であり、悪い意味で「老けている」(疲れている、現状維持志向、「やらない理由」ばかり挙げる)ようにしか見えない。
「維新」という積み木は一旦崩そう
……と、いつまで経ってもポジティブな話が出てこないので、そろそろ無理やり話を切り替える。
私が維新の支持を辞めたとわざわざ言うのは、政党として維新の応援は辞めるが、維新と言う政党の中に支持する政治家がいることを強調するためだ。依然として私が支持する政治家の多くは維新に所属している。
「支持すべき政党が維新だった」という私にとって「維新だから」「吉村さんだから」という理由で支持している勢力とは一線を引かなくてはならなくなった。ちょっと前までだったら、どちらの立場も外から見れば大差ないのだから「維新支持者」と括られても差し支えなかったのだが、今は違う。
今の維新は、不安定な土台にまだなお積み木を一つ積み上げようとしては二つ崩し、また一つ積み上げようとしては二つ崩し……を繰り返して積み木をどんどん低くしている状態だ。じゃあどこかで積み木が高くなるトレンドに入るかと言えばそうはならない。本気で高い積み木を造りたければ、一旦全部崩して土台から丁寧に組み直す必要がある。
積み木全体が党だとするなら私は維新と言う政党を一旦否定する立場を取るし、同時に崩した積み木の中から質の良い積み木を探す作業もしなければならない。地べたに並べる一段目の積み木こそ、大きくかつ安定したものでなければいけない。
ここから先で語るのは、そういう「土台の積み木」となるであろう維新の政治家についてである。
私が維新・旧党三役を支持する理由
本来、私のキャラクターからすると変に応援して逆にネガキャンになってはいけないと気遣ってなるべく名前を出さないようにしているのだが、今応援している政治家にはそんな気遣いが必要なさそうなので挙げておくと、藤田文武、柳ケ瀬裕文、音喜多駿、の3氏である。奇しくも、日本維新の会旧執行部党3役だ。
もちろん政策論に共感したり、心の中でエールを送る政治家・候補者は他にもいるが、今回の選挙では眼中の外に置いた。その理由は後日に詳しく書くが、今の維新は一度破壊する必要があり、中途半端に活躍されるとモヤモヤが残るばかりだからだ。
ではなぜ、この旧執行部の三羽烏は応援するかと言えば、維新の政治家として酸いも甘いも知り尽くした良い意味での「老」だからである。
今の維新は、同一人物が「日本維新の会」代表と「大阪維新の会」代表と「大阪府知事」、さらに「万博監督」という、言わば3.7足の草鞋を履いている状態だ。維新がいかに数ばかり大きくなって使える人材がいないかをよく示している。傍から見れば維新という政党は「死に体」「やけくそ」「すてっぱち」と言ったところだろう。
では一体この組織体制をいつまで続けるつもりでいるのだろうか。もちろん、続けたくても続くわけがない。
今回の選挙でどんなに物事が良い方に転んでも+1だろうし、それで喜んでいる場合ではない。ー1だとしても今さら悲嘆にくれる必要もない。維新は今、過去17年を振り返って、「維新とは何か」を問い直す折にある。日本を変革する前のステップとして、自分の組織を変革する必要がある。
今それができそうなのが、このお三方くらいしか私は知らないのだ。
(選挙後の注釈:ついに「プロ」は1人しかいなくなったが)
藤田文武を語る
まず藤田文武氏。
私の勝手な印象としては、この人こそが最も「維新」について熱いものを持っている気がする。いや、維新と言うより、組織とはどうあるべきかを強く認識していると言うべきか。幹事長としての会見で返答に困る姿をほとんど見たことがないし、マスメディアに対峙する藤田さんには実年齢以上の迫力がある。
今回の選挙でも、吉村代表が気弱な目標設定を掲げたことに対して声高に抗議したのは非常に印象深い。どちらかというと古いタイプの政治家なのだろうが、今の選挙制度がまだ続く限り、こういう体育会系のザ・幹事長タイプの人材は今の維新にとっては非常に貴重だろう。
先の代表選での候補者討論会で、リモート出演する吉村候補者(当時)が岩谷現幹事長から耳打ちされていたことに憤慨したのも、藤田氏が「組織のトップはどうあるべきか」を知っていたからだろう。
大阪関西万博が話題として挙がった『ReHacQ』では大チョンボをやらかしたことについては、その後満面の笑みで「ごめんなさい」したので文字通りご愛嬌。
柳ケ瀬裕文を語る
次に柳ケ瀬氏。
私にとって柳ケ瀬さんが印象深いのは、コロナ禍においていわゆる「常識」や世間の風潮に抗って、新型コロナ感染症という疾病、およびコロナ禍という社会現象の実態追究に尽力していた姿だ。外国人問題にも早くから熱心に取り組んでいた。この人にしかるべき権力を与えれば社会をどう変えてくれるだろうかという期待をさせてくれる政治家の一人だ。
さらに柳ケ瀬氏に期待しているのは「維新の代表として」である。イケメン、長身、声、頭の良さ、演説の上手さ、これほど必要な要素を高いレベルで持ち合わせている人はそういない。結党以来、維新はずーーーっと「慢性的リーダー不足」の状態にあり、その維新を救ってくれそうな人の筆頭が彼だと思っている。
音喜多駿を語らない
そして、音喜多駿氏。
彼については……まあ、特にこれと言って書くこともない。
…で済ませると嫌われそうなので書いておく。
音喜多さんはその時に与えられた役割のために自分と言うリソースを全力かつ最も公開的に使い切る、ということを実践してきた人だ。たとえそれが100点でなくとも、おそらくかなり効果的であろうとは思うので、文句をつけたくてもつけられない。書くとしても褒めるばかりになって私らしくなく、なんか嘘っぽくなるので書きたくないのだ。せいぜい「早口を治せ」くらいか。
さて、彼のことを「落ち着きのないお調子者」とか「出しちゃいけないものを出した人」とか「ダンスがキモい」とか「リュック背負って代々木ゼミナールから出てきたら浪人生」などと皆さん好き勝手に言うが、彼を甘く見てはいけない。
音喜多さんの政策論は実は足腰が物凄くしっかりしていて、例えば……あ、もう話飽きてきました?じゃあ、やっぱりやめときますね。



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