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足立康史議員と話ができる人は選ばれた人

政治・経済

※サムネ画像はWikipediaより。

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「機関紙問題」の蒸し返し

「ゆるふわ海原雄山」氏という、今ではハンドルネームにもプロフィールにも書いていませんが、とりあえず維新支持者と言っても良いであろう政治垢さんがいらしゃって、毎週政治にまつわる話題をツイキャスで配信しておられます。9月16日、いつもの定期配信をされていて、その中で扱われた話題のひとつに「足立康史」というキーワードが使われました。

主旨としては、かつての東京15区補選における「機関紙」の違法性の指摘(SNS発信)について、党(党紀委員会)からお𠮟りを受け、党員資格停止6か月という処分を不服申し立てもなしに受け入れたのにも関わらず、今それを自分で蒸し返すというのは、ご自身が拘っていたはずのガバナンスのに反する行為ではないか、という指摘です。

この指摘はごもっともで、さらに言えば、いわゆる機関紙問題についての足立氏SNS発信自体がガバナンスの問題だったのです。すなわち、組織としてひとつの意思を持つ東京維新の「当事者」は総務省と、これまたひとつの意思を持ち上位組織である日本維新執行部にお伺いを立てた上で、OKという判断を出したわけでして、「維新」という同じ暖簾を掲げると言うだけで東京維新でもなければ日本維新執行部でもない足立氏が口を出すというのは筋違い=ガバナンス違反なのです。そこにもし問題が生じたとすれば、それは東京維新や日本維新執行部の責任でしかありません。

 

一般人にフラれてキレてしまった足立議員

で、今般の本当の問題はここから。くだんの海原氏ツイキャス配信中、足立氏の話題に触れていたまさにその時に、

「代表選の話以外は、参加者から、だいだいの論旨を聞きました。一度、スペースで意見交換させていただけないでしょうか」(原文ママ)

という足立氏ご本人からのコメント。海原氏がその誘いをやんわり断ったところ、

「多くの方に私について論評したのなら、本人とも直接議論すべきです。本人に向き合えないなら、所詮、独り言やね。」

と足立氏。

さらにその後、ご自身で開いたスペースにおいて、海原氏を「レベルが低い」「SNSを使って発信するに相応しくない人」「便所の落書き」と非難する始末です。

 

ここで終わったらただの備忘録なので、この小っちゃな騒動の要点を挙げておきます。

 

「独り言」ってどういうこと?

まずは敬語で丁寧にアプローチしてきたかと思ったら、フラれた途端タメ口に切り替わって「独り言やね」と吐き捨てる。もはやフリーザ様のような少年漫画の悪役レベルの分かりやすいリアクション。

さらに面白いのはその理屈で、「多くの方に私について論評したのなら、本人とも直接議論すべきです」という道理は一体どこから持ってきたのでしょうか?私の知る限り、そのような道理はどこにも存在しません。

SNSにおいては、ただの一般人であっても、無制限に公開できるし、無制限に公開された発信については誰にでも一方的に批判する権利があります(それが嫌なら鍵アカにすれば良いだけ)。もちろん、そこにプライバシーや著作権の侵害、名誉棄損などがあってはいけませんが、基本的なルールを守る限りにおいては、各々が誰のどのような発信についてどのような見解を公開しても全くの自由なのです。

このSNSの基本ルールに関しては、勘違いしている人もかなりいるようですが。

ましてや、足立氏は国会議員という公人です。政治家の職務は、有権者の意思・不平不満を議会にフィードバックさせること、またそのフィードバックが具体的にどのような形で問題提起され議論され、法制化の道筋を作ったかなどの成果報告をすることでしょう。このマクロな受発信さえできていれば、政治家と有権者は必ずしも直接的な交流というミクロな受発信をする必要はありません。必要性を感じるならSNSなりタウンミーティングなりでやれば良いという話です。

少なくとも、一般有権者が公人について批評したからと言って、「当事者たる政治家の対談の申し出を受けなければならない」なんて道理はないのです。

何となくスジが通っていそうな錯覚を覚えてしまいますが、「多くの方に私について論評したのなら」というフレーズは、言い換えたら「キサマ、俺のいないところで勝手なこと言いやがって!」という感情論でしかありません。

断られたからと言って口調を変えて罵倒して去っていき、さらに自身のスペースで罵詈雑言の限りを尽くすという行動が何よりの証拠でしょう。自分の都合の良い「べき論」を主張する人は、橋下徹氏の「公人はブロックをしてはいけない」という極めて真っ当なべき論に対しても屁理屈をこねて正当化してしまいます。

 

そりゃ対談なんてしたいと思わないでしょ

さて、足立氏の神髄はさらにその後に見ることができます。

翌日、海原氏が足立氏とのやり取りをnoteにまとめて公表したところ、足立氏が再度「誤解があるから説明させてくれ」とスペースに誘うも、「私は足立さんのポストを読んで勉強させて頂くので、スペースには別のお好きな人を読んでください」と皮肉たっぷりにまた断れてしまいました。

これ、普通の一般的な常識のある人には説明不要だと思うのですが、再度アプローチを試みるなら、

まずは謝れよ

なんです。一般人たる維新支持者が真剣に話(コメントを含むと「議論」)をしている場に、自分の名前が挙がっているからと突然闖入してきて、不躾にも「対談しろ」と迫り、断られたら罵詈雑言を浴びせる。「レベルが低い」だの「便所の落書き」だのと好き勝手に罵倒しておいて、その次の日には何事もなかったかのように親しげに再度近づいてくる。

これはもはや主張内容などどうでもよく、『キャシー塚本』を彷彿とさせる、人格やメンタルヘルスの話になってきます。

ご本人に聞いたわけではなく、私の勝手な想像でしかありませんが、「対談を断ったら罵詈雑言を浴びせるような人だから」こそ、海原氏は対談を断ったのでしょう。

 

ちなみにですが、私は以前ツイッターやツイキャスで「コミュ障こそ挨拶・礼節を重んじよ」と主張したことがあります。特段私が保守派思想の持ち主だからということではなく、「どれほど考え方が違っていても礼儀作法さえ守っていれば建設的な議論ができる」からです。コミュ障とは言語化がヘタクソであったり、人間恐怖症でオドオドしてしまったりする人のことですが、先人が積み重ねてきた挨拶や礼儀作法はただ「コピペ」するだけで使える便利なメソッドで、その後言葉に詰まろうが多くの人は話を聞いてくれるでしょう。逆に、考え方が近くても、この態度が成っていなければ協調はしにくいでしょう。別に、足立氏がコミュ障ということではなく、わざわざ相互理解の障害を自分自身で作ってるんじゃないですか?という指摘です。

 

私がなぜ「アンチ足立」になったか

海原氏が足立氏の申し出を断った理由が想像通り(私が勝手に想像しているだけです)だとしたら、それは私が「アンチ足立」を宣言したの理由とほぼ同じです。その理由とは「慢性的コミュニケーション不全」です。

私を含めて、(私の見る限り)所謂「アンチ足立」や足立氏に批判的な言動をとる人のほとんどは「元・足立支持者」です。足立氏の高い能力を認めた上で、その反作用となる氏の言動を諫めようということを皆やっていたわけです。私で言えば、スペースで直接お話をさせて頂き、足立氏の最大の武器である提案力を生かすための動画創りに関するアドバイスと、一方でやはり感情的な批判を諫めました。前者については自身の配信に活かしてくれたようですが、後者に関しては「だって人間には感情があるからしょうがない」と開き直る始末で、「あー、ダメだこりゃ」と当時から諦念を抱いておりました。

本来私のキャラでもない「アンチ」を名乗ったのは、それが客観的にも決定的になったからです。支持という状態やアドバイスという行為は、その人に向上の可能性があるという前提にのみ意味を成すものですが、足立氏はそうではなかったのです。

維新所属でいる限り、これからも足立氏について言及することはあるでしょうが、「足立康史」を主体にした話はしません。つまり、「党は足立議員をどうすべきか」を述べることはあっても「足立氏はどうすべきか」については今後一切述べることはありませんよ、というのが「アンチ足立康史宣言」の意味です。

機関紙問題の根幹部分について当ブログの過去記事を読んで頂くとして、ハイライトだけ紹介するなら、「元凶は音喜多さん一人です」発言でそれまでの自らの主張の説得力を墜落させてしまうようなことをしてしまう人なわけですよ。

さらに先日は、

黒魔術の呪文のようなポストまでしていて、もはや政治的主張がどうこうという問題ではなくなりつつあるようです。

 

 

音声通話でないと議論できないの?

もう四半世紀ほども前になりますが、インターネットと言う通信インフラが発展し始めた最初の頃、複数のユーザーが同時に交流する手段として、主にBBS(掲示板)とML(メーリングリスト)と言うのがありました。MLというのは参加者が同一メールアドレスに投稿すると、参加者全員に自動配信されるという仕組みで、様々なテーマで議論を交わせるコミュニティー形態でした。

このMLの何が良いって、ツイッターのような文字数制限がないので、論者同士が好きなだけ引用して好きなだけ言及できるという点です。当時はネット上での音声通話なんて機能はなかったので、お互いに声すら知らないままテキストベースで議論を重ねていましたのですが、どう考えても今よりはるかに濃密できめ細やかな議論ができたのです。今ツイッターなんかを眺めていると、比較的軽薄な交流については良いかもしれないけど、ガチンコの議論なんかをしたいと思った時に、どう考えても昔の方が良かったよな、なんて思っちゃうわけです。

私がX(旧ツイッター)上で、純粋な質問に対しては必ず返信しても議論をしないのは、Xの形態上まともな議論が成立しにくいからです。論者が最小数の2人だとしても、その中に論点は複数あって当たり前。どこかで活発に行われている議論を発見しても、どこまで辿れば良いのか、どこから話が分岐したのか、さっぱり分からないなんてことはよくあります。

スペース等の音声メディアも同様。『朝生』みたいな討論番組を観ていてもよく分かりますが、よほどホストが公正で客観的立場を維持しなければ、人が喋ってる時に平気でかぶせてくるのは当たり前、ヘタすりゃ罵倒合戦になってしまいます。何より、残るのは録音のみで、テキストとしてのログは残りません。テキストにしてあれば、1分で把握できるやり取りも、録音から確認しようと思うとその何倍もの時間と手間がかかります。一体、どれほどの人がそれを聴いてくれるでしょうか。

丁寧な議論をしたいならやはりテキストベースが一番です。Xだと文字数が足りないならnoteやブログを使えばよろしい。

 

「足立さんは好きな人と喋っていれば良い」

海原氏は、足立氏の再度のスペース招待に対し「自分の好きな人とお話してください」と皮肉たっぷりに辞退されました。足立氏が海原氏を「SNSで発信するのに相応しくない人」と思っている以上に、海原氏にとっては足立氏が「直接話す価値のない人」ということでしょう。(※くどく断っておきますが、本人に確認したわけではありません)

余談ですが、私が足立氏について書いたブログが本人に取り上げられたことがあります。いわく、「デマのオンパレード」との痛烈なご批判だったのですが、私が書いたのは「事実を羅列した上で、私なりの分析や評価」でした。「見当違い」「バカ」「下品」と言った評価なら分かるんですが、論述の構造上「デマ」は生じようがありません。足立氏は難しい単語をよく使われますが、ボキャブラリーが豊富であることと、適切な言葉を選ぶ能力は別なんだと感じさせられました。「デマのオンパレード」はとにかく腹が立つという感情を表すのにちょうど良かったということでしょう。

理性を持つ論者が選ぶのはやはり同レベルの理性を持つ論者です。理屈をつけては一般人をブロックしまくり、衝動的かつ感情的にポストしたかと思えばすぐツイ消し。こんなことを今でも続けているのですから、そりゃ足立氏と対話したいと思う人も減っていくのも当然でしょう。逆に、自分中心に「篩」にかけて交流相手を選別してきているのですから、足立氏にとっては今最も心地よい言論空間ができているのだと思います。

 

では執行部は足立氏をどう扱えば良い?

党紀委員会の結論が出る前、私は、

「『除名』や『離党勧告』が出ることはまずないだろうし、そうすべきでもない。今般の問題は、少なくとも外形上はある部分で足立さんの言い分を認めなくてはいけないし、党内で議論が必要。また、どんな処分であれ、それは『執行猶予』の意味合いが強くなる」

と予想し、実際に処分は「党員資格停止6か月」となり、藤田文武幹事長からは「これがラストチャンス」という発言もありました。

さて、では今ならどうすべきか?と言うと、即「除名」です。

「この話はラップアップ!」と自らの口で言っておいて、時間が経つと蒸し返し、さらには支持者たちの真面目な議論を「便所の落書き」呼ばわりしたのですから、擁護する余地が全くありません。

まあ、今の維新執行部は腑抜けな上に、目下それどころではなく、足立さんにもさほど興味もないでしょうから、何のアクションも起こさないでしょうが。

 

 

長くなりましたが、本題はこれから書こうと思っている「政治家と発信」についてであって、今回の話は枕でしかありません。ではまた。

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