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「私がブロックしない理由」と「ク〇リプは宝」というお話

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SNSをやるのは見聞を広めるため

「友達がほしい」よりも「知的探求心を満たしたい」方がはるかに大きい私は、自分と気が合う人を探すことにあまり意味を見出しません。非常に少数派だと思い込んでいた自分の考え方に共感してくれる人を発見したら素直に嬉しいものですが、SNS等をやる主目的はそこにはありません。私にとって最も大事なことは、「私と違う考え方に触れる」ということです。

私よりも高度な知識や思考法を持っている人と交流できれば単純に勉強になるし、明らかに私よりもレベルの低い人であっても、「なるほど、こういう考え方もあるんだな」とか「そりゃ世の中にはこういう人もいるよな」と社会観察をする上で重要な標本が採れます。

「私と違う考え方に触れる」ことの楽しみは、その人と私が交流することによって、その人か私のどちらか、あるいは両方に変化がもたらされることです。自分の世界が拡張する、あるいは自分の存在が誰かに影響を与え得ることを確認して(一般的に使われているよりは少し大きな意味で)承認欲求を満たす。これこそが人と交流する第一の意味であり、SNSはその規模をいとも簡単に数万倍にも拡大してくれます。

 

ブロックしないのはブロックする意味がないから

この姿勢を貫く限りは、私の方から交流を拒むということはあり得ません。どのような意見であれ、それが人に迷惑をかける行為や犯罪(物理的に邪魔になる大量リプや、プライバシーの侵害など)でさえなければ、私はブロックしません。実際のところ「人に迷惑をかける行為」も「犯罪行為」もほとんど目にすることがないので、今のところ私のブロック歴はゼロのままです。

ただし、「拒まない」は「必ず反応する」こととは全く違います。むしろ逆で、「ほとんど無視する」になります。特に最近フォロワーさんが増えたり、兵庫県知事騒動でちょっと目立ったりすると、インプレ万単位など普通になり、時にはいいねだけで万を超えることもあります。そうなるとそこに付くリプや引用も相当量になり、いちいち反応していられません。一応何とか全てに目を通そうとは努力していますが、相当割合で見逃しているでしょう。そして反応するのは、いわゆるイツメンや好意的な意見、そして「純粋な質問」のみです。

この姿勢は換言すれば「一切の善悪を排除し、徹底的に多様性を認める」ということにほかなりません。これ、私からするとめちゃくちゃシンプルで分かりやすいことを言ってるんですが、本当に分かる人はごく一部で、さらに分かった上で実践できる人となると、さらに一握りになるようです。

 

ク〇リプをブロックするなんてもったいない!

元々ツイッターを始めたのはホビー・雑談目的でしたが、政治や社会問題の話をするようになって、空気を壊してるかもなーと思い、今のアカウントを作ったという話は前にもしました。まあ、それでも特段力を入れてやっていたわけでもなく、単に自分のしたい話をするために相応しいアカウントを作ったというだけです。

ところが、選挙や政治・社会問題にまつわる大きな話題に触れた時、「なぜ俺にはこんなにも影響力がないのだ」と己の力の無さを再認識するわけですな。と言って、フォロバ目的でフォローしまくるというのも私らしくないやり方でして(TLをシャッフルしたいという目的で時々「入れ替え」はしますが)。

というようなフォロワー増加に消極的な私からすると、たとえク〇リプ(引用)でもありがたいのですよ。大体多くの人は、クソリプや誹謗中傷を送り付けられた時にブロックしたくなるんですよね。

私は、そういう時、逆にチャンスだと思うのです。そのク〇野郎にだっていくらかのフォロワーがいるわけです。例えば500人のフォロワーがいたとします。さて、その500人がその〇ソ主と全く同じ考え方でしょうか?もちろんそんな訳はありません。わざわざフォローしているのだから、その多くはその人の考え方に近いとか共感するところがあるといった可能性が高いのは当然です。

しかし、皆さんもおそらくそうであるように、完全に共感しているからフォローしているわけではないというケースも少なからずあるのです。あるいは、同じ政党を支持しているからフォローはしていても、細かいところまで考え方が同じとは限りません。あるいは、かつてそうだったとしても、そのク〇野郎の〇ソリプ、そして私のポストを見て、何かしら刺激を与えることができるかもしれません。フォロワーが500人いたとして、そのうち9割の450人が「そーだそーだ、小ライスはウンコだー!」なんて言ってても全く構わないのです。問題は残りの1割である50人は中立的に見ているかもしれないし、さらにその1割である5人はむしろ私に共感する可能性だってあるのです。

かつて私は、『ツイッターヤンキー論』で、「自分のことを嫌いという人は目立つが、貴方はそこに目を向けるべきではない」と主張しました。

自分のことを嫌いだとか、誹謗中傷を投げつけてくるようなヤツは、「ブロック」という意思表示すら手間と時間の無駄で、私のように「人間と認めない」くらいに思えば良いのです。ゴミばかりの汚い海岸であっても、沖に行けば綺麗な海にも繋がっています。ク〇リプも、自分の意見をボトルメールにしてどこか遠くへ届けてくれる手段だと思えば黙って放っておけるのですよ。

なので私は、ク〇リプを頂くたびに、「ありがたやーありがたや~~!」と手を合わせて感謝することにしています。

だって、自分の意見を広めたいためにツイッターで政治垢やっているのですから。

 

仕様書どおりに動くならブロックは必要ない

過去に何度か述べたことがあるんですが、私はSNSにおいてはなるべく規則的な言動をするよう心掛けています。「小ライス」というネット上の人格はその作動において厳格な仕様書があって、その仕様書どおりに動く情報処理装置なんですよ。SNSで流れてくる膨大な量の情報を、自分の限られた時間の中で処理しなければいけない。政治垢ならなおのことこの時間という問題は重要です。

少し具体的な話をすると、私の場合であれば、日中ツイッターを読むのは、時間が空いた2~3分にタイムラインを眺め、とりあえず後から読み返したいというものには片っ端からブックマークを付けておきます。コメントを入れずにいいねで済ませるものについてはその場で済ませます。PCの前に座って自由な時間ができたら20分かそこらの間に発信できる限りします。夜、テレビを観ながらだらだらとTLを眺めているような時間は除くとして、私のSNS利用における“タイパ”は相当良い方だと思います。

さて、その際に脳の中はどう動いているかというと、際限なく流れ込む情報はまず一次審査的に上っ面で読むべきか否かを判断します。そのうち、その場限りで良いものについては先述の通り、いいねを付けて終わり。残りは頭の中にある書斎のいずれかの引き出しに入れます。引き出しの取っ手には「賛同」「反駁」「補足」「趣味」「ネタ」「大喜利」などと言ったシールが貼ってあります。

では「ブロック」はと言うと、そもそもそういう処理をするという選択肢そのものがないのです。

理由は簡単で、ブロックする基準を設けるのが難しいからです。先に書いた通り、私は仕様書どおりに動くのですが、ブロックするための基準ばかりは明確に言語化できません。敢えて考えるなら実害、ってことなのですが、それすらほとんどないので、ブロックせずにいるのです。

人が誰かをブロックする場合、そのほとんどは感情によるものでしょう。「コイツむかつく」とか「傷ついた」とか。場合によっては、過去の負の経験からトラウマを誘発させがちな発信者なんかもあるかもしれませんね。SNSでの私はほとんど感情を動かさないので、ただひたすら無視するのみです。

逆に、1件でも感情でブロックしてしまうと、2件目3件目と続けなくてはいけません。そして基準が曖昧であるということは、その都度ブロックするかどうかを考えなければいけないということであり、とてつもない時間とエネルギーの無駄遣いをしてしまうことになります。

 

最近は3000字を超えたらその時点で辞めようと心がけているので、続きは別の投稿に譲ります。

 

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