日本一周したライダー青年はなぜ自殺したのか
バイクで日本一周した後に自殺してしまったADHD青年の話です。
私は彼の存在を昨日知ったのですが(知った時にはもう他界されていたわけですが)、その日本一周旅行の報告ツイートは幸福と達成感に満ち溢れたものです。普通、こういうチャレンジングな長期間旅行というのは下降気味の精神状態をリセットし、視野を広げ、人生観を変え、改めて生きる喜びを湧き立たせる効果があるものです。にも関わらず彼は自殺を選んでしまった。それはなぜなんでしょうか。
バイクは孤独を増幅させる?
彼の自殺の報に寄せられたコメントに興味深いものがあります。
バイクで日本一周した後に自殺した青年について、「なぜあんなに綺麗な景色を見たのに生きようと思えなかったのか」という意見がある一方で、「バイクで暗い道を走ってると鬱になってくる」みたいな意見もあり、自殺した青年も決して美しい景色だけを見ていたわけではなかったのだと思わされた。
— 容疑者X (@grandherusu) October 3, 2022
これ、めちゃくちゃ分かるんですわ。いや、私は若い頃からバイクに憧れながらも結局免許も取らなかったんですけどね。
なぜバイクを諦めたかと言うと、ひとつには事故の可能性。私は車の運転に関してはウン十年間いまだに無事故記録を更新し続けているのですが、バイクは止まるとコケますからね。鈍くさい私は絶対に事故るだろうし、車と比べてバイクは、事故は死や重篤な怪我に直結する恐ろしい乗り物です。
2つ目は過酷だと言うこと。気候の良い晴れた日にこそバイクは気持ち良さそうですが、極端に暑かったり寒かったり、雨が降ったりすると、途端に過酷になります。車であれば暑さ寒さも関係なく、雨に打たれることもありません。もやしっ子の自分には耐えられないでしょう。
3つ目がこのツイートに書かれているようなことです。私は極度の寂しがり屋の怖がりでして、例えば若い頃軽トラでわらび餅売りのバイトをしたことがあったのですが、孤独に耐えられず2日で辞めてしまいました。たった一人で夜の山道などもっての他。車に乗る人ならお分かりでしょうが、全く照明のない夜の山道って車でも怖いんですよ。ステアリングランプ(ハンドルを切った方向にライトが点く)があればまだだいぶマシですが、それでも真っ暗闇の中コーナリングだらけの山道を走るのは、運転技術上の怖さもあるし、さらにこのツイートにあるように気が滅入ってしまいます。空調、カーステ、ラジオ、テレビなんかが装備されている車ですらそうなんですから、バイクであれば何をかいわんや、です。
が。
おそらく。
この話の本質はそこではないと思います。
暗闇のバイク運転が精神を侵した?
暗闇の山道で精神が崩壊するなら、2周目の日本一周旅行なんぞしないでしょう。
その旅行報告は本当に充実感に満ち溢れています。働いてお金を貯めて、そのお金で数か月間かけて日本一周。この計画性と行動力、羨ましい限りです。しかし彼は、自殺してしまった。最後のツイートには、7か月前の「注意欠陥多動性障害」の診断書の写真。
ふむ。
彼の自殺の報告を受けて、同じくADHD持ちの人がキレるというのもよく分かります。そりゃね、「俺も死ななきゃならないのか」って思っちゃいますよね。
しかし、亡くなったこのkotaさんにはどんな苦労と苦悩があったのかは、彼にしか分かりません。他の人には知り得ない事情があったかもしれないし、安直に選んだ結論だった可能性もあります。
それでも一つ言えることは、ADHDという障害が、その人に自殺と言う選択肢を与えてしまうほどの苦悩を作り得るということです。
やや刺激的なことを書いていますが、どうか読者の皆さんには冷静に読んで頂きたく思います。
平均こそが幸せ
先日、ツイキャスで「頭の良い人と悪い人、どっちが得か」という話をしました。ブログにしようと思ってまだしてないのですが。
先に種明かししておくと、この問い自体がデタラメで、私の回答は「平均の人こそが幸せなのだ」というものです。
簡単に概要を言ってしまうと、
IQ(知能指数)という物差しを使った場合、平均の100を挟んだ20の幅の中に、全人口の半分が収まってしまう。その平均から離れると、上であっても下であっても急速に人口が少なくなり、IQ140ともなると「ほとんどいない」状態になってしまう。この社会は、人口が最も分厚い平均の人達が、平均の人達にとって都合の良い常識、平均の人達にとって使いやすい道具・設備、平均の人達が喜ぶドラマ、映画、アニメ、ゲームのコンテンツを作っている。平均から外れると不便であり、楽しくなく、感覚を共有できる同士も少なくなっていく。これは非常に不幸なことである。
ということです。
このテーマにおいてはIQというひとつの分かりやすい指標を使っているわけですが、ADHDなどの障害も同様。彼らは平均の人でないがゆえに、不便な思いをしたり、あるいはマイナス評価をされてアイデンティティーを棄損したりしているわけです。
で、このADHDにまつわる問題のうち、ADHDであるがゆえに避けようのない不便というのがある一方で、別にそれって【普通】でなくても良いよね?と言えるような特性だってあるだろうと思うわけです。
自殺したライダー青年がどのような理由で自殺という選択肢を選んだのかは分かりません。が、もし、先述の後者に当てはまるようなことで、あるいはADHDという診断そのものによって心を病んでしまっていたのなら、それは今後社会が改善できる余地があると思うのですよ。
ADHDの根本的解決法
ADHDの「治療」技術がどれほど進歩しているのかは分かりません。その意味において、ADHDがなくなるための提案は私にはできません。が、社会的にADHDをどう扱うべきかという提案ならできます。
社会的にADHDをなくす方法ーーそれは、「ADHD」という障害名そのものをなくしてしまうことです。
そもそも、ADHD(注意欠陥多動性障害)、あるいはLD(学習障害)、あるいはASD(アスペルガー症候群)といった「障害」は0か100かで測れるものではないはずです。ADHDと診断はされなくても忘れ物が多い人だっているはずで、そういう人は「おっちょこちょい」「あわてんぼう」などと言われます。LDではなくても小学校のテストで30点以下を獲ってくればそれは「深刻なバカ」と言って良いでしょう。
で、「ADHD」という障害名をなくしてどうするか。実際に不便な思いをしている人だっているでしょう。ということで、私は、
細かなスペック化をすれば良い
という提案をします。
当ブログでは過去に、「子供のIQは知っておくべき」「個人をスペック化すれば男女差別は解消に向かう」という旨の2本の記事を投稿しました。
前者では「子供の教育をする上で、その子の特性を知っておくことは大前提だ。そしてその特性に合わせた教育を施すべきで、今の一様な授業は全くナンセンスである」というのが主旨。後者は「『女だから差別される』、逆に『女だから優遇される』というような問題があるなら、個人ごとでスペック出してしまえば、どっちの立場も言い訳できなくなって良いのでは」というのが主旨。
この2つの考え方を合体させれば、ADHDを含む発達障害にまつわる不遇、不便の問題も、相当改善されると思うのですよ。
教育はカスタマイズせよ
まず学力テスト。誰もがやる、そして誰もが大嫌いなアレですが、これで「結果のスペック」は分かります。
IQテスト。いわゆるIQテストより、もう少し詳細な知能特性が分かるものが好ましいですね。
さらにIQでは分かりにくい特性の検査。これは素人である私にはその方法がすぐ思いつかないのですが、要するに長期記憶であったり、情報の重要度認識であったり、物理的空間認知能力であったり、注意力であったりを測れる方法があるなら測り、ないならないで大人(教育者)がしっかり観察する。
それによってレーダーチャート(栄養成分なんかを示す時に使われる多角形グラフ)にすると、人それぞれいろんな形になるでしょう。その形によって教育方法をカスタマイズしていけば良いと思うのです。
もちろんそれに伴い、学校の仕組みも変える必要が出てきます。これによって直ちに予算が増えるということはありません。例えば1学年3クラスあるなら、今だと同じ授業を3つやっているだけですが、その編成を変えれば【3種類の授業】の実施が可能なのです。私はさらに細分化して、必要であれば数人の少人数授業をやっても良いと思います。もちろんそうなると予算を増やす必要が出てきますが、教育のための予算なんて今の2倍でも3倍でもかけりゃ良いんですよ。学校でやってくれりゃ塾代の負担がなくなるんですから。
そしてここから人々の新しい価値観が生まれます。「皆と同じことができなければいけない」「凸や凹があるのは異常」「学校で皆が同じ授業を受けるのは当たり前のこと」という価値観を
「人はそれぞれ生まれ持った特性が違う」
「その人に合った教育や扱いを」
に変化させていくのです。いわゆるパラダイムシフトですね。
って感じでどうですか。
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