トロッコ問題とは何か
まずトロッコ問題とは何か。
ブレーキの壊れたトロッコが走ってくる。そのまま走らせるとその先にいる5人の人間は轢かれて死ぬことになる。あなたはちょうど分岐点の転轍機(切り替えレバー)のそばにいて、進路を変えることができる。が、進路を変えたその先には別の1人の人間がいる。さて、どうする?
というお話です。
5人と1人どちらを助ける? 小・中学校で出題された「トロッコ問題」めぐり賛否の声
これね、学校側が具体的にどういう意図を持ち、どんな感じで授業を進めたかによると思いますよ。多少の偏見を入れてしまうと、「学校の先生なんざ皆左巻きなんだろうから、この授業から、『少数派を切り捨てる安倍政権を許さない!』みたいなことに繋げたいんじゃねーの!?」とかそんなことまで想像しちゃうわけですよ。
ここでは学校側の「選択に困った時に周りに助けを求める大切さを教える」というコメントを信用して話を進めます。
とは言え、一体どこから話せば良いのやら。
トロッコ問題そのものは算数の問題
まずトロッコ問題そのものなんですが、これってアホみたいな算数の問題でしょ?相談する必要もなければ道徳というレベルの話でもない。5人が助かることと1人が助かること、どちらが良いかって、5>1なんだから前者でしょ、そりゃ。
今AIによる自動運転の実用化が目前に迫ってますが、実際の話としてトロッコ問題は問題なのですよ。つまり、新路上に人がいるけど避けた先にも人がいる、というケースですね。5人と1人なら簡単。1人の方に進めば良い。
問題は、年寄り5人と子供1人みたいなケースです。「命の重さは1人一つ分」と言い切ってしまうのなら、これだって考えることはないのですが、例えば平均寿命から今の年齢を引いてその合計値を比べたらどうなるか。平均寿命を80歳として、5人が全員70歳、少年は10歳とします。年寄り側の余命は合計50年ですが、少年は70年。さて、どっちを選びますか?考え、助けを求め、議論すべきはこういうケースのはずなんです。
現実の話としては、例えばテロ組織による誘拐事件なんかがあるわけですが、アメリカみたいな国は一貫して「テロリストと取引はしない」という立場を取ります。政府がこのような態度をとると、誘拐された人達は殺されたりするわけですが、だからと言って応じてしまうと、テロリスト側は味をしめてまた次の誘拐をやるモチベーションが生まれ、次の被害者を作り出してしまうことになるからです。これこそ「考えなければならない問題」ですわな。
トロッコ問題そのものはどうでもいい問題
この問題って、自分の責任が問われるかどうかという実に汚らしい話になりがちなんですよ。倫理的にどーだ、功利主義がどーだと小難しい言葉がいっぱい出てきますが、要するに
「黙って5人が死んでも自分の責任ではないが、レバーを切り替えて1人が死ねばその1人については自分に責任が問われるんじゃないの?だったら何もせずに5人を見殺しにして自分は潔白でいたい」
と、アレンジを加えないトロッコ問題はこういう「自分の都合だけの問題」になってしまうんです。
保護者のクレーム
さて、このトロッコ問題を取り入れた学校に対し「授業に不安を感じる」として保護者がクレームを入れてるんだそうな。
同番組内では明星大学准教授の藤井靖氏も
やはり人の命に関わることなので、感受性の強い子は場面をリアルに想像してショックを受けてしまったり、授業が終わっても気分の悪さを引きずってしまう可能性がある
と語っています。
あのさー、小学生っつっても5,6年生でしょう?ショック受けるって何やねん。低学年で『ヒロシマのピカ』読み聞かしされたわしらのショックは比べもんにならんで?
うちの子なんて、自転車乗り始めたらすぐYoutubeで交通事故の映像見せましたよ。ショックを与えるために、です。子供は未熟だから交通事故の悲惨さを想像することができない。だから映像で見せるわけです。5年生にもなってこんなことを想像すらさせないっちゅーの?じゃあ聞きたいんですが、何歳になれば相応だと言うんでしょうか?クレーム入れる大人って、多分答えられないんですよ。そういうことを考えること自体が不快なんです。
人は不快なものから目を背けたい
私、こういう考え方が大嫌いなんですよ。当ブログ分館である『犬の部屋』では度々「誰かが犬を飼うことで殺される犬がいる」ことを主張しています。ある美しい(と思える)ことや気持ち良いことには、それに付随して美しくない現実、不快な現実が存在します。このことを私はオフラインでもちょいちょい話題に挙げるんですが、皆耳を塞ぎたがるんです。聞かなかったことにしたがるんですよ。自分の犬には高級な肉やソフトクリームを与え、本人(犬)も分かってないのに良い服を着せる、あちこちに旅行に連れて行く。その人達がそういう趣味を得るために、ガス室で殺される犬がいる。想像したくないんですよね、そんなことは。
例えば我々は肉を美味いと言って食う訳ですが、その肉がどうやって作られるかは想像したくないんですよ。だからそういうのは所謂被差別民がやってきたという歴史があるわけです。あるいは、その肉を食ってる間、世界のどこかにいる「今日食えない人」のことなんて考えたくありませんわな。
でも子供に教えなければならないこともあるでしょう。「お前が今日コンビニで買ってきた駄菓子の喜びは一瞬で消えるが、その金で買えるワクチンで命が助かる子供がいる」という現実も教えなくてはいけないと私は思うんです。「だから駄菓子を食べるのはやめろ」とか「今すぐアフリカに行け」とかそういうことではないんです。それこそ、考えさせるのが目的なんです。
私に言わせれば小学5年生はトロッコ問題を考えるのに妥当な年齢です。
とにかく子供には議論させろ
SNSにしろオフラインにしろ、私が普段生活していて感じるのは、日本人の議論する力のなさです。議論する力とは、「情報を入力(相手の言うことを聞いたり、題材を頭に取り入れたりすること)し、それを論理的に解析(論点がどこか、解決法は何かを整理すること)し、結論を出力(分かりやすい言葉に直して伝えること)する」ことです。とにかく日本人は議論を避けようとするし、一見白熱した議論に見えてただの罵倒合戦や大声コンテストだったりするんですよ。
トロッコ問題なんて浅い話ではなく、例えば「大統領制と議員内閣制どちらが良いか」とかね。こういう書き方はすごく難しく見えますが、直接選挙か間接選挙かという問題を抽出すれば小学生でも議論できます。あるいは電車やバスの「優先座席は必要か」とか、「性同一性障害者はオリンピックにどう参加するべきか」とか、とにかく小中学生でも議論できる社会の問題はどんどん議論させれば良いんです。
個人的に「詰め込み教育」そのものには賛同しているんですが、これだと入力だけになります。議論をしないことには考えて、出力する、というプロセスを経験しないまま教育が終わってしまうわけですよ。
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