シャーデンフロイデとは何か
今回の『岡田斗司夫ゼミ』は、予告していた『サピエンス全史』ではなかったが、サピエンス全史に書かれている人間の社会性について、より深くわかりやすく掘り下げた、中野信子著の『シャーデンフロイデ』を取り上げていた。
中野信子『シャーデンフロイデ』。私の昔からの持論「仲間意識を持つ快感と仲間でない人間を叩く快感は同質である」と概ね一致する。その意識・感覚はオキシトシンという物質によって生み出されるんだとか。
最近よくオキシトシンは、女性の出産時などに多量分泌される「幸せホルモン」とも呼ばれる物質で、肯定的なイメージを持たれているが、仲間の中で村八分を作って排除したり、「倫理にもとる」行為を見つけて叩いたりする時にも分泌されるらしい。この時に多幸感が得られるのが「シャーデンフロイデ」という心理現象である。
誰かと仲良くなることは誰かを排除すること
誰かと仲良くなることは、誰かを排除することである。もちろんこれは敢えて乱暴な言い方をしている。ガキンチョの「俺たち親友だもんなー」とか女子高生がプリクラに書く「一生マジ友」みたいなのがこれにあたる。ナチス政権下におけるユダヤ人と非ユダヤ人とかもそう。
これは「自分には分からないから批判する」のではなく「仲間」を規定してそれ以外をはぶるってのは楽しいということが分かるからそのクズ性もよく分かるのよね。
「そんなことを考えるのはあなただけだ」
「心が貧しいからそんな風に考えるのだ」
という声が聴こえてきそうだが、「こんなことを考えるのは自分だけ」はある程度認めるにしても、いや、「心が貧しい」のもある程度認めるにしても、間違ったことを言っているつもりはない。
人の不幸は蜜の味
前にも書いた話。保育所の遠足で園児の一人が公園の側溝に転落した。ケガはなかったが頭から突っ込んでビショ塗れに。その時園児の一人が「あの水には毒が入ってる。だからあの子は死ぬ」と言い出し、それに何人かが同調し始めた。私は同調した一人。つまり、シャーデンフロイデという快感の沼に浸っていたわけだ。
ただ私は変な子だったので、そういう自分を「あ、自分は他人の不幸を喜んでいる。毒が入ってたら先生はもっと慌てるはず」ともう一人の自分を作り上げていた。5歳の時の話だが、ものすごく明確に記憶している。でも「自分があの立場だったら」とまで考えが及ぶのはもう少し後の話。
大人ばっかりの環境で育ったから、自分と同レベルの集まりを客観的に観察するクセが付いたのか、子供の頃からその手の「社会的行動」が単純なパターンにはまってることに気づいていた。と同時に「仲間である」と明示的に再確認することの快感も、それはそれで感じていた。
自分には自分で友達がいたし、かなり目立つ存在でもあったと思うが、転校生が来たら真っ先に友達になるのが自分だった。これ割と重症の病気だと思うけど、ある集団の中で寂しそうにしてるヤツとか、共通項のないヤツとかが、もう警報出すように目立ってしまうのである。
社会性過敏症?
「仲良しグループ」が形成されると、いつ自分が仲間はずれになるかと怯える、あるいはすでにそういう存在なのではないかと心配する構成員が必ず発生する。
例えばモンスターハンターのようなネットゲームでログインしたら、いつもの仲良しグループが4人いるとする。その4人はすでに予定を立てており、自分を置いて行ってしまった。4人までしか同時プレイできないので、誰かがプレイから外されるのは当然であり、それが後から来た自分になることも当たり前なんだけど、ほんのちょっとの心の弱さで「自分は仲間はずれにされているのでは」と思ってしまう。それが人間の社会性である。
で、「気にしすぎ病」の私は、もし自分が最初の4人の方にいたとしたら、あと1人無理矢理にでも探して、なんとか3人x2に出来ないものかと方策を練り始めるのである。もし自分が後から来た1人だったら?やはり、分かってはいてもものすごく寂しさを感じてしまうだろう。私こそ社会的動物であり、社会性過敏症だから。
意味のないチーム分けに意味を作り出してしまう人間の愚かさ
ある集団を全くのランダムで、「あなた方はクマさんチーム」「あなた方はウサギさんチーム」と2つに分けると、チーム内で連帯意識が生まれて、その際にもオキシトシンが分泌されるという。そして、何の理由もないのに、敵チームと言うだけで相手チームメンバーを憎むようになるんだとか。恐ろしい話だ。
これが私が子供の頃から感覚的に認識していた「ヒトの社会性の副作用」であり、それが最近になって、そういうホルモンが関係してることが分かった。
人間は社会性ゆえに、無理やりにでも正義と悪を分け、味方と敵を分ける。その雑なものを我々は「いじめ」と呼ぶ。
「口笛吹いて空き地へ行った。知らない子がやってきて遊ばないかと笑って言った」
(かつてのNHK教育テレビで道徳の時間に見せられた「みんななかよし」の主題歌の歌詞)
これ、1人と1人だからハッピーエンドになるのよね。2人いるとこに知らない子が1人来たら、そこに自ずと「敵」「味方」の壁ができて、悲惨なことになる可能性もある。これこそがホモサピエンスの社会性。
「ランダムなチーム分け」に比べれば、最初にいた2人が仲良くしていることに多少の意味はあるだろうが、それでもたまたま同じクラスだとかたまたま子供の頃からご近所だったという程度のもの。「いいヤツだから」「気が合うから」もちろんそれもあるだろう。でも後から来た1人だってそうかもしれない。ところが人間の理性はそこまで至らないことがよくあるのだ。
高校野球の応援は「ピュア」なのか?
日本人が金メダル獲ったら嬉しいのよ。でも、それを必死に応援したり喜んでる日本人見たら引いちゃうわがままなボク。わ~オキシトシン出してるわ~と。「君羽生君知ってる言うてたやないか」「こっちは知ってるけど向こうはこっちのこと知らん、すまんの~」となる。
高校野球の応援もそうで、勝った負けたで一喜一憂する女子学生を見ると、
「いや、あんたたまたまこの学校入っただけですやん。相手チームの高校入ってたら、同じこと向こうでやってるでしょ?」
と思っちゃう。これ言うとクズ呼ばわりされるのであまり言わないけど。
自分は普段、ネトウヨ呼ばわりされるようなことを言うタイプだけど、実は物凄い左側の人間だと思う。人間同士のあらゆる壁を取り払い、皆と仲良くしようよという思想。もちろん、オリンピックなんてもってのほか。
「制裁」はやめられない
不倫叩きをはじめとして、有名人の不祥事に対する非難みたいな「制裁行動(サンクション)」もオキシトシンを分泌させるためだという。オキシトシンという快楽物質を得るための行動は、ドラッグと同じである。
「サンクション」は合理性を超越した感情的行動である。例えば、タバコのマナー違反による迷惑行為は、その迷惑行為だけをやめさせるための啓蒙をすれば良いのに、いつしか「喫煙者って時点で人間終わってる」と言われるようになる。
「良い朝鮮人も悪い朝鮮人も皆殺せ!」「ロリコン気持ち悪い」もそうだし、「アベ政治を許さない」もそうかもしれない。
性犯罪被害の撲滅を謳う際に、男性の性欲の存在そのものを否定的に扱うニュアンスが散見されるが、これも理性を失っている。で、過激フェミvs女性嫌悪がぶつかり、お互いに「サンクション」の応酬をして、どっちもがオキシトシンつゆだくの、言ってみればWin-Winの関係になる。
西村ひろゆきが「頭の良い人同士の会議は1分で終わる」と言うのは、そこに感情という非合理的要素を介在させずに、問題の本質のみを話し合うからだろう。1分で終わるはずの会議も、喋ることそのものが目的だと1時間かけたって終わらない。西村ひろゆきは「人間の副作用」を理性で制御できているのである。
本能的行動を客観視する
というように、人間の本能的な社会性というのは、優しさや秩序を生むと同時に暴力や知性の瑕疵を発生させるものともなる。平たく言えば、オキシトシン中毒である。
一方で、合理的に【しか】考えられない人もいて、余計な感情を排して思考できるが、その分協調性が欠如していたりする。ホリエモンなんかはその類かもしれない。
人間同様、社会的な動物と言われる犬は、よその犬を見つけたら強い関心を示し仲良くする反面、縄張りや上下関係といった概念によってケンカもする。ネコ同士だとむやみにベタベタしない代わりに、ケンカもしない。
人間関係で感情が動いた時は、今自分の「本能」がどう反応しているのか客観的に考えてみるのもいいかもしれない。
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