ちょっと前のツイキャスを受けて、一部テキスト化しておきます。
私には小学校高学年から中学生にかけて、「善悪」や「科学」について猛烈に考える時期がありました。
善悪を追求した結果……
例えば。
仏教で「殺生は良くないこと。動物を殺せば地獄に堕とされる」とされているなら、もう肉や魚をさんざん食ってる自分はどうやっても極楽には行かれへんやないか!
ほな仮に今の知識を持ったまま転生したとして、仏教で規定されるこの「善」は実践できるか。牛乳を飲むのは牛を殺してるわけではないから良いとして、まだ赤ん坊のうちに肉や魚を食わされそうになったらどう抵抗しよう?いや、それは「食った」だけで自分で殺したわけではないから大目に見てもらおう。
しかし、や。
一切の殺生があかんとなったら、動物実験によってできた薬を自分が使うのはどうや?結構怪しい。こんなもん殺生の外注やないか。
さらに。よう考えたら、外を歩く時だって絶対アリ踏み殺してるよな。じゃあアリを踏み殺さないよう注意深く地べたを見ながら歩かなあかんのか?わしの目が悪かったらどないしょ?いやいや、アリだけやないがな。もっと小さい虫かって歩いてる可能性あるわな。
となるともう外にも出られへんがな。ほな、家で葉っぱ食べて寝とくしかない。いやいや、その葉っぱ、農薬使ってるやろ!絶対虫殺してるやん!
あかん、何も食べずに寝るしかない……はっ!!これが「即身仏」っちゅーやつか!でも極楽に行くためや。意識が薄れゆく中でひょっとしたら悟りが開けるかもしれん……ではおやすみなさい。
……あーーーっ!、今ダニが死んだかもしれん!!!
もちろんこの言語化は今の私がやっているので、当時考えていたことに少しアレンジを加えています。
あなたの未来はもう決まっている!
次は科学の方の例。
私は、本当に小さい頃から、24時間経つと「明日」が「今日」になり、「今日」が「昨日」になることが不思議で不思議でなりませんでした。
※この時点でキ〇〇イ扱いされてもおかしくないのは承知の上です。
この疑問については高学年どころか、物心ついて間もない頃から持っていたものです。
夕飯を食べている時、概ね24時間後である明日のこの時間に何を食べるかは分かりません。食事を作る母親だって献立を決めているどうかも分かりません。ところが24時間経つとすると、「不確定の未来」は「確定した過去」になります。例えば10日を基準にした場合、11日には何が起きるか分からないけど、9日に起きたことはその後変わることがないのですよ。そして、何が起こるか分からない11日もその日が来たら9日と同じ「確定した過去」になってしまうのです。
だんだん着いてこれない人が出てきましたね。それも承知の上です。
これを図にするとこんな感じ。
「時間」とはチャックを閉じていくように進むのです。チャックの構造は、開いた部分は2次元的な広がりを持つのに、閉じた部分1次元的な線になってしまいます。そして「現在」がどんどん上に進み、「未来」は「過去」になっていきます。
「明日のことが分からないなら昨日のことだって分からないということがあっても良いはず!」
「逆に言えば、昨日のことが確定しているなら明日のことだって確定していてもおかしくない!」
この疑問を自己解決したのが中学1年生の時でした。
例えば、ボールを投げれば、9.8m/秒^2という地球の重力加速度によって減速し、どこかで落下に転じます。投げた時の速度と角度さえ分かっていれば、何秒後にどこに着地するのか正確に計算することができます。風が吹いて少しずれることもあり得ますが、その風だって地球上の空気の圧力差という原因があり、その物質の分布座標を正確に知ることができればボールの着地情報は確定的になります。
これは、この世のあらゆる物質がニュートン物理学の支配下にあるということを示しています。
ビリヤードでブレイクショットをした場合、どのボールがポケットに落ちるかは、プレイヤーがキューで手玉を打った瞬間に決まっているのです。
人間に「自由意思」はあるのか?
問題は、「プレイヤーは人間なのでどう打つかは分からない」ことです。
いや、しかし。物理的に人間を解剖してみた場合、そこに「人間以外には確認できない未知の物質」なんかはあるのでしょうか?これがないんですよ。人間だって酸素だの水素だの炭素だのといった地球にありふれた物質で構成されており、その物質群だって物理法則から逃れることはないのです。我々の「思考」や「感情」なんかも、あまりに大量であまりに高度な構造体を造って「計算ができない」というだけであって、結局はありふれた物質が電気信号のやり取りをしているに過ぎません。
つまり、この世の全ての物質の座標とエネルギーが分かっている全知全能の神にとっては、1年後の私がどこで何をしているか、将来誰と結婚してどんな子を産むか、どんな車に乗っていてどんな犬を飼っているか、全てのことが「すでに決まっている」ことなんです。
当時の小ライス少年は戦慄しました。「大変なことを発見してしまった。皆気づかずにのんきな顔して生活しているが、これはえらいことだ」と。そしてこの事を、親戚のおじさんに告白しました。
さて皆さん。親戚の中学生の子にこんなことを言われたらあなたはどんな顔をしますか?
そうです、おじさんもまさに今のあなたのような顔をしながら「小ライス、普段そんなことばっかり考えてるのか」と死んだ魚のような目をして言うわけです。
疑問を解決してくれたのは、人ではなく本
前者の哲学的疑問についても後者の科学的疑問についても、それが落ち着いたのは大学生になってからです。
まず哲学の方は、ゼミのテーマから派生して興味を持って読んだプラトン(ソクラテス)を読んで、その思考法がそっくりだったことに感動しました。アニメ『チ。』はまさに「知」に比重を置かれた哲学的作品で、中でも「言葉」の価値について熱く言及されています。文字は時間や空間を飛んで、誰とも知らない人に情報を伝えることができる、と。私は2300年の時間を超えてソクラテスと言う共感者を初めて得たのです。
科学の方は、宇宙論関係の本を読み始めた時です。『アインシュタインを超える』という超弦(ひも)理論を取り上げた本で、その78ページに書かれていたのがまさに私の考えていたことで、それが「決定論」と呼ばれていることもその時初めて知りました。ついでに、ゲームのタイトルとしては知っていた『ラプラスの魔』についても「そういうことやったんか!」と。
「決定論」が現在是とされているのか非とされているのかについては、量子力学なんかの話をしないといけないのでここでは割愛します。
人に期待するな
さて、私がXでいまだ1件もブロックしておらず、バズった時に涌いてくる無数のクソリプを無視できる理由が少しご理解頂けたかと思います。私にとって、理解や共感を求めるなんてことは子供の頃からできなかったのです。信頼していたおじさんでさえ死んだ魚の目をするんですから。
SNSでクソリプに腹を立てたり、何かというと喧嘩を始める人は、「自分の言動は理解・共感されて当然だ」と思っている、厚かましくて、おそらくそれまでの人生がそこそこ幸せだった人なのだと思います。
よくTLに流れてくるカジュアルな心理学では「人に期待するな」なんてことがよく言われます。芦田愛菜ちゃんも言ってましたね。私は最初から他人に期待などしていないので、楽なんですよ。「理解されるのが当たり前」と思っている人にとって「理解されない」ことはこの上ない苦痛ですが、「理解されないのが当たり前」と思っている人にとっては、稀にいる「理解者」の発見は歓喜です。
あ、言っておきますが、私は知的好奇心において「孤独」だっただけであって、それ以外は別に孤独だったとか虐められていたとかそういうことはありませんからね。むしろクラスの人気者だったタイプです。
ただ、早いうちに「自分がこう考えてるから、あるいは感じてるから」を根拠にそれを表現しても、理解や共感どころか、場合によっては不快感を覚えさせたり変人扱いされるだけということを悟ったからです。他者とのコミュニケーションにおいては、自分の発信は自分のごくごく一部、あるいは嘘にしておくのが賢いやり方だ、と。ロビンマスクの鎧が防具であると同時に自分を制御する拘束具になっているのと同様です。
人は皆一人ぶんの孤独に耐えて 地図を広げ 風が吹くのを待っている
ASKA『TURNING POINT』より
以上の話は、特にソクラテスの方は、この後にする政治の話に繋がるのですが、この記事では触れません。その話をしたくて、枕としてこういうエッセイ的なことを書く必要が出てきたのです。
滅多に言いませんが、今回のブログに関しては、面白かったと思った人はXのリンクにいいねを付けて頂ければ幸いです。
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