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政治と推し活について ~「好き」と「正しい」の境界線問題~

吉村大阪府知事 政治・経済
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「政治と推し活」の問題の本質はこれ

維新の問題について、話は前後させて、「政治と推し活」について語る。

先日、海原雄山氏にお招き頂いて「維新とその支持者について」というテーマでスペースで話した。その文脈上にあるのがこの論題であり、どうもちょうど良いタイミングでアベプラでもこの話が出たらしい(まだ観ていないが)。

この話は、「政治家を推すのってどうよ!?」ということなのだが、私なりに一言で回答するなら、

「目的設定の問題」

である。分かる人には本当にこの一言で分かるだろうから、以下の長文を読んで頂く必要はない。

 

人物評価が「イメージ」に支配されるのは当然

政治活動や政治言論活動において「推し」の要素を排することなどできるわけがない。私自身、明確な支持政治家(政党)を持つようになったのは橋下徹が初めてであり、その理由は橋下徹という1人の人間が「頭が良く」「肝が据わっており」「覚悟が感じられ」「面白そうだったから」であり、その中身は論理性と人間が持つイメージが混ざり合った複合的要素である。

勝海舟は坂本龍馬の第一印象を「粗野で大胆不敵な雰囲気を持っていたが、眼光鋭く、並外れた気魄と知性を感じさせる人物だった」と語る。この”印象”こそが龍馬の推しとなる大事な要素のひとつだっただろう。豊臣秀吉は身長が低く醜悪だったと言われるが、超人的な頭の良さとコミュ力により、そのコンプレックスを逆手に取って、触れ合う人間を油断(親しみやすく)させた末の天下だったかもしれない。

『人は見た目が9割』などと言う本がベストセラーになったこともあったが、私たちが付き合う人を選ぶ時、インプリンティングされた印象という要素はかなり大きい。その要素が何になるかは人による。美しい、頭が良い、背が高い、イケボ、あるいは秀吉のようにその逆だったかもしれない。石破さんも、あの容姿は逆にパンチが効いててむしろ武器になると思っていたのに、もったいない話だ。

とにもかくにも、人はパンのみに生きるものにあらず、論理のみで動くものでもない。

 

「好き」と「正しい」、「支持」と「信仰」の境界線

政治言論界隈の話をするなら、「イケメンを見つけたと思ったら政治家だった」が足を踏み入れるきっかけになるのはごく自然な話である。

問題は、「支持」が「信仰」になってしまうことだ。

これは一言で言うと「”好き”と”正しい”の境界線」の問題である。

私がこの話をする際に必ず例に挙げるのが「リンゼイさん殺害事件」だ。日本在住のイギリス人英会話講師のリンゼイ・アン・ホーカーという女性が日本人男性に殺害された事件だ。そしてその犯人である市橋達也が逃走先で確保された。市橋は逃走中に美容整形手術を受けており、元の、ブサイクとは言わないまでも凡庸な容姿から、シュッとしたイケメンに変わっていた。さらに連行される際の映像ではフードを被っており、どこかミステリアスにも映った。するとあら不思議、当時mixiで「市橋ファンクラブ」ができてしまったのだ。

いや、構わない。凶悪犯罪を犯した犯罪者だろうが、美醜の問題は別だ。中身がどうであれ、感覚は感覚なのだ。私だって大韓航空機爆破事件で逮捕された実行犯、蜂谷真由美こと金賢姫を初めて見て「おっ、美人!」と思ったものだ。最近の話だと、自身のわいせつ図画を通販して稼いでいたナントカという女性も、めっちゃ可愛いと思った。

問題は何かと言うと、ファンクラブ会員が「市橋さんはまだ”容疑者”であって、罪は確定していません!」と言い出したことだ。もちろん間違ってはいない。というか、一般論として当たり前のことをわざわざ言っているのだ。本質は、ブサメンだった頃の市橋でも同じことを言っていたか?あるいは他の事件の容疑者についても言っていたか?という点だ。

市橋容疑者の件は、「好き」と「正しい」の境界線を引けないという話の典型例である。

もう一度言う。我々が人間を選ぶ時、あるいはその人物の正邪を判断する時、どうしてもインプリンティングされたイメージに支配されている部分がある。相当論理的・合理的に考えることができるという自負のある私だって逃れ切れるわけではない。

だが、いくら何でもこれはないでしょ?という度合いの問題はある。市橋ファンクラブの会員は、
「この人のことが好き」⇒《だから》⇒「この人は正しい」
とこの本来別である2つの要素を直結させてしまったのだ。

 

「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」

さて、一般論はここまでで、ここからは維新という個別事情の話。

古くから私のことを知っている人なら、私が「流動的維新支持者」を名乗っていたことや、ことあるごとに「誰が言ったかではなく、何を言ったかを見ろ」と主張していたこともご存じかと思う。これは、維新という政党を「正しいことを言っているから支持している」のであって、「支持しているから言ったことを正しいことにしている」わけではないということの表明であり、正しくない振る舞いがあれば支持をやめるということの宣言でもある。そして実際、支持はやめた。

「誰が言ったか~」については、本当に何度も例示するのは申し訳ないが、これほどの好例はないのでまたしても挙げさせて頂くと、足立康史議員についての評価が非常に分かりやすい。彼が正しいあるいは面白いことを言えば徹底的に褒め称えたし、正しくないこと(主にSNSの使い方や過激な表現)をすればケチョンケチョンに貶した。特に後者は人格論に及ばざるを得ないので一見すると「悪口」に見えるが、それでも私にとっては好き・嫌いの問題ではない。

ちなみに、同じ人から矛盾した話が出た時や、宣言したのに実行しなかった時は、その個人の「信頼度」を裏パラメータとして持っておくのが良い。そしてタイミングを見計らって「一見正しいことを言っているが、彼は過去にこんなことを~」とやる。私が玉木雄一郎氏にやっているのがそれだ。

 

「自己修正メカニズム」を失った維新支持者

おっと、維新支持者の話。私が維新支持者をやめた理由は、政党本体が「政党組織を守るための政党」になりつつあるのに連動して、維新界隈(支持者)がどんどん宗教化しつつあるからだ。話は遡って松井氏勇退から何段階かに分けられるのだが、長くなるので割愛。

ハッキリ言えば、今の維新は、

「天地がひっくり返っても吉村さんと万博の批判は許さない」

という鉄の掟を守る宗教である。

「大阪メトロが止まって帰宅不能者が出たけど楽しかったよなー!なーっ!?」

「選挙の責任を取るって言っておきながら、自分以外の執行部をクビにした吉村さんに文句あるやついる?いねーよな~!?」

と、まあこんなノリだ。この手の集団の特性は、以前このブログでも紹介したユヴァル・ノア・ハラリの『NEXUS』で克明に説明されている。

いわく、「可謬性」を認めず、「自己修正メカニズム」を喪失した組織や集団が自らの「物語」を守るために、批判を排除し、盲目的な忠誠を強いる構造を暴く。維新支持者はまさにこれに陥っている。

かつては改革の旗手だった維新だが、今や「政党組織を守るための政党」に変質しつつある。そして松井氏の勇退を境に、維新支持者は「吉村知事と万博を神聖化する物語」を中心に再編されつつある。この物語は、支持者コミュニティを宗教的な結束で縛り上げる。ハラリ流に言えば、維新支持者は「真実を追求する知的な集団」から「物語を防衛するカルト集団」になろうとしているわけだ。

 

「愛情無罪」という病

このブログの別館である『知の小人ブログ・犬小屋』で、飼い犬の可愛さのあまり、叱ることもできず、リードを引っ張ることもできず、欲しいという顔をされると適量を超えた食事を与えてしまい、「メンタルは神経症、ボディは肥満」みたいな犬を生み出してしまう毒飼い主をよくやり玉に上げる。そしてこういった毒飼い主の心理を「愛情無罪」と呼んでいる。

彼(女)らにとって、「好き」「愛する」という感情は無条件に無垢であり無謬である。その感情から派生される言動もまた同様である。ところが、その愛情表現は犬の肉体的健康を損ねて寿命を短くし、精神的健康を損ねて他人からは愛され難くなる。それを指摘されたら「なぜ愛するということが悪いように言うの!」と反発する。

この無暗な愛情は、先のことも考えていないし、周りのことも目に入っていない。ただただ、自身から溢れる母性や愛情を対象にぶっかけてエクスタシーに浸っているだけだ。

 

かつて、異様なほどにレベルの高かった維新支持者は今

かつての維新とその支持者の関係は、両者があまりにレベルが高く、相互に研鑽し合う良いスパイラルを作っていると私には見えていた。ところが、二度の都構想否決で集団精神疾患に陥った支持者群は、(本当はあるのに)目的を失い、支持することそのものを目的化させた。それが支持率の低下につながり、野党第一党どころか、れいわにすら及ばない零細政党にまで墜落した。

その流れで「すでに大阪維新の代表と大阪府知事に就いている吉村さんを日本維新の代表まで兼任させる」という無茶苦茶なことをやった。これは吉村さん個人の能力云々の前に、これだけの数の特別党員がいながらなぜ国会議員でもない吉村さんが代表にならなければいけなかったのか、「党内地方分権」とは何だったのか、という政党の根本的なあり方に疑問を向けざるを得なくなる。

要するに、高感度だけは高かった吉村さんをトップ・オブ・トップに持って行けば何とかなるかもしれないという盲目的判断だったわけだが、その結果、元々心を病み気味だった支持者群はいとも簡単に「自己修正メカニズムの喪失」「愛情無罪」に陥ってしまった。

その支持者の口から出る言葉は、

「ほんま吉村さんは政治史上に残る傑物やで!」

「大阪に生まれてよかったー!」

「どや、大阪以外で万博なんかでけへんやろ!」

こういった、外部の人間が聞けばサブイボしか出ない言葉がナチュラルに出てくるようになった。

もちろん彼らだって、北朝鮮のテレビ放送を見て「北朝鮮って素晴らしい国だな~」とは思わないだろうし、「足立〇史を返せーーー!」と喚く支持者のことは気味悪いと思っていたはずだ。

ところが自分のことになると分からなくなってしまうのである。

維新政治家の方も支持者に甘え、個人の責任を回避するような選択ばかり取ってしまうため、「維新らしさ」を失ってしまう。良いスパイラルは、完全に負のスパイラルとなってしまった。

ここは割とハイライトを当てたい部分なのだが、「政治と推し活」問題は、「”好き”から政治に興味を持つ」パターンだけではない。恐ろしいのは、かつてゴリゴリの政治垢だった人までが、今はただの推し活をしているという(私が見た)現実があることだ。

 

 

政治家や政党を支持する目的は何か

ようやくここで冒頭の結論に繋がる。

私はすでに足を洗ったのでこういった人達と直接話すことはほとんどないだろうし、怖くて話すこともできないが、もし貴方が理性を残した維新支持者なら、こういった「行き過ぎた推し活」をする支持者に聞いてみれば良い。

「あなたの目的は何ですか?」

と。

私の目的は「日本社会を良くする」というところにあって、その手段として政治があり、その政治を構成する要素に自身の安全も財産も捨てて本気で改革しようという橋下徹が表れ、その橋下が作った政党が維新だった。維新を支持していたのは、この目的に適う「手段」だったからだ。「理由があって維新を支持」していたのであって、「維新だから支持」していたわけではない。

そして私の言論活動は、それによって関心のない層が維新の政策に目を向けるように誘導する意図がある。その時、政治家にしかるべき意志と能力が伴っていれば、取るに足らない微力であっても貢献できることになり、社会を良くするという目的に近づくことができる。

「本当にそうなってるか?」と言われてもそれは知らないが、常に自戒はしている。ところが、ここまで語ってきたような信者化してしまった支持者の「応援活動」は、私からはどう見ても人を遠ざけていくようなベクトルに進んでいるようにしか見えない。

 

さて、あなたが維新を支持する目的は何ですか?あなたの活動によってあなたが支持する対象の政治家や政党あるいは日本社会は1年後、10年後、50年後にどうなることを見込んでいますか?

あ、別に答えてくれなくてもいいです。

 

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