かなり昔に書いたブログ記事ですが、ここには2つの大きな趣旨があって、ひとつは「社会保障制度や日本社会全体の生産性を考えたら、シルバー人材の活用法を考えないといかんでしょ」であり、いまひとつが「凶悪事件が起きるたびに皆”断罪”したがるけど、それって意味ないのよね」です。
ここでは後者をもう少し掘り下げて語ってみようと思います。
感情的断罪の愚かさ
我々が報道で何かしらの凶悪犯罪や不届き者を目にした時、ついつい「とっとと牢屋にぶちこめ」とか「迷わず〇刑にしてしまえばいい」などと物騒なことを口走ってしまうものです。たしかに、日々目にする事件の中には、社会に迷惑をかけているのに刑法の整備不良のせいで法に問えないものや、犯罪と認定されてもどう考えても量刑が甘いというものもあります。
しかしながら、「●刑にしてしまえ」と言うのはただの感情漏れであって、現実的ではありません。気持ちは分かりますが、●刑のハードルを下げてしまうと、「どうせ●刑になるなら何人〇しても同じ」と、現在進行形で犯罪を犯している犯人に開き直らせてしまい、同じ事件でもより凶悪化する可能性があるからです。
それでも一般庶民がテレビの情報番組なんかを見て、ケシカラン案件に触れて「こんなヤツは〇〇してしまえばいい」と誰へともなくつぶやけば、「自分は社会問題を考えている文化的人間であり、良識の持ち主である」という自己満足感だけは得られるかもしれません。一人でつぶやくだけでなく、それをSNSに書き込めば「そーだそーだ!」という”だよねイイネ”も一定数付くことで承認欲求も満たされるでしょう。
ただ、残念ながらそんな言論にほとんど価値はありません。それどころか、理性を喪失したその場限りの感情論は、常に突発的であり、衝動的であり、無思慮であり、他人のヒステリーを誘発させるだけであり、むしろ社会に悪影響をもたらす効果の方が大きいかもしれません。
そもそも新聞やテレビの報道、特に週刊誌や情報番組なんかは、視聴者の共感を煽る仕掛けが施されています。そりゃもう、あなたのいいねが欲しくて必死になってるんですよ。
私は「断罪」しないと決めている
過去に何度もこの話はしていますが、私はどのような問題においても「断罪」はしないことに決めています。
例えば何かしらの凶悪事件報道を目にして「許せない」「悲しい」「理不尽」「○刑にしてしまえ」などですね。正確に言えば全くしないわけではありませんが、かなり演出的です。
このような感情の吐露に全く意味がないわけではありませんが、意味があるとしても、大量のサンプルを採って「多くの人はこう感じている」ということの分析材料になるだけであり、その発信単独ではやはりさほどの意味はありません。
私が目指しているのは……というより、私が巷間の話題を目にして気になるのは、論理で詰め切るところまで詰めていないのに、感情論に突っ走ってしまう人が多いところです。
そしてその感情論は、論者にとっては論理的であり絶対善だと思い込まれてしまっていることが多いのも厄介です。
例えば、以前にも触れたテーマで言うなら「自殺は善か悪か」みたいな話です。あなたが一般的な日本人としてなるべく周辺と摩擦なく暮らしていきたいなら「自殺は悪いこと」と言っておけば良いのですが、私のような哲学者はそういう安直な答えを出すことはできません。
私にとって自殺や自殺者が多い社会はあくまで「好ましくない」のであって「悪」ではありません。自殺が悪だとするなら、不治の病で痛みに耐え続けている人が最終的に選んだ自殺も悪だと言わなければならなくなります。
ところが【程よいところ】で思考停止に陥ってしまっている人に
「自殺がなんでダメなんですか?」
と聞いても
「そりゃダメに決まってるでしょ。自殺ですよ?」
としか答えてくれません。「〇〇に決まってるでしょ」のフレーズが使われた時点で議論は破綻を迎えます。ここでもし、
「決まってるかどうかも分かりません。私は単純に自殺がダメであるという理由を聞いてるんです」
と聞けばどうなるでしょうか。
「だってね、君、もし自殺を良いことになんてしてしまったらだな~」
「いや、自殺が良いかどうかではなく、『自殺がダメ』な理由を聞いてるんです。不治の病で痛み止めも効かない、我慢しても余命は1か月。この人が自殺を選んだらこの人は『悪』になるんですか?あるいは酷いいじめに遭い続けて自殺を選んだら?あなたはビールを飲んで甘いものも食いまくってブクブク太って明らかに寿命を短くしてますよね。もし平均寿命より10年早く死んだとしたら、あなたは『10年分の自殺をした』ことになり、悪ってことになりますか?」
……とまあ、「徹底して論理を詰めていく」とか「哲学を考える」と言うのはこういうことなんです。こういう時に相手はさらなる必殺奥義を使ってきます。「そんなものは極論だ!」あるいは「屁理屈だ!」と。ところが実際にソクラテスやハラリといった哲学者(あ、ハラリはウィキペディア上「歴史学者」ってことになってますが)が主張していることってこういうことなんですよ。
どうですか、小ライスと議論なんてしたくないって思ったでしょ?
あ、似たような話は当ブログの『犬小屋』でも書いたことがあるので、ご参考までに。
「正しい」と「好きである」を区別しよう
脱線したので話を戻しましょう。大事なことは「何が正しいか」ではなく,
●自分は何を望んでいるか
と
●みんなで共有すべき目標は何か
の2点なんです。
何度も言うように、「何が善であるか」は宗教を持ち出さないことには説明ができないので、誰かが「これこそが普遍的に正しい選択である」などと言い出したら、その人とは議論を避けるようにしましょう。そして、自分も決してそれを言わないようにしましょう。
代わりに「私にとってはこれが好ましい」と言うのです。
例えば、今日本の治安が悪くなって殺人事件の被害数が増えているとします。これは【じょーしきてきに】考えれば”悪い”ことですが、あなただけは「好ましくない」と表現すべきです。あくまで普遍的な価値観ではなく、私個人の感覚である、と。
もちろん、この場合のあなたの感覚は多くの人が共有できるものでしょう。なので、「凶悪犯罪を減らすにはどうすれば良いか」という目標・議題を共有できることになります。
するとそこには「学校教育」「刑法の改正」「警察取り締まりの強化」「監視カメラの増加」「外国人にまつわる法整備」など様々な意見が出て【解決法】の材料となるでしょう。
「好きな食べ物」と「食べるべき料理」の違い
「好きな食べ物はなんですか」と聞かれれば人それぞれ答えは違うでしょう。そして、みんなちがってみんないい、のです。
さて、以下のやり取りを見て下さい。
「皆さんにとって最も白ご飯がすすむおかずって何ですか?」
「とんかつです」
「ピーマンの肉詰めです」
「ブリの照り焼きです」
「はい、全員不正解です。正解は豚しゃぶでした」
これは私が雑談の際によくやる冗談ですが、当然ながらこの後にくるツッコミは「なんで正解があんねん」「最初から聞くな」などでしょう。
もちろん、好きな食べ物に正解などあるわけがないのですが、私が冗談でこれをやるというのは、ガチの議論の際に「好き嫌い」「善悪」「正誤」を混同しないということです。ところが、実際に巷間で(ま、主としてスペースなんですが)交わされる議論の中には、これらを区別できずにごっちゃにして大声で罵倒合戦するようなものが多いのですよ。
もちろん、論題は「好きな食べ物」なんてことはなく政治や社会問題なのですが、中身をよく聞いてみると「とんかつなど日本料理ではない!」とか「ピーマンの肉詰めなど実際ほとんど肉ではないか!」とか、要するに互いの好き嫌いにケチを付けているだけだったりするんですよ。
食べ物の話もそこに「目標」「目的」があるなら、議論になります。
例えば、「高血圧の人が食べるべき寿司ネタは何か」とか「免疫が上がる食材は何か」とか「健康のために納豆はどのくらいのペースで食べるべきか」とか「犬に与えてはいけない食材は何か」などです。これらは「好き嫌い」の話でも「善悪」の話でもなく、科学的妥当性を基準とした(ある程度の精度の)正解がある話で「正邪」の問題となります。
ここまでをGrok先生に見せたら「大変興味深いが長い」と言われたので、終わりにします。私にとってGrokは絶対善なので。





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