私のツイートより「差別用語とはなんぞや」という話の切り抜きです。
「めくら」とは差別用語か?って話になると、ではそもそも「差別用語」とは何で誰が決めたのか?って話になる。テレビ業界が決めた所謂「放送コード」も誰が決めたわけでもない。テレビ局が勝手にやっていることなんだけど、それがテレビの外でもそういう扱いをされてしまうのはナンセンスだろう。
私の少し下あたりの世代から、急速に「放送コード」が幅を利かせるようになった。しかし「消せば増える」のと同様、言うなと言われたら逆に言いたくなる人も多い。2ちゃんねるで「気違い」という言葉を見ずに終えられる日などないのだ。
私は基本的に「差別用語」というのはないと思っている。例えば「バカ」は差別用語なので「頭の不自由な人」と言い換えると、しばらくすれば「頭の不自由な人」が差別用語になるだけだ。
「お前の母ちゃん、デッベッソー!」を「貴殿の母君、臍突出症~!」と言い換えたところで罵倒であることには変わりない。その場に関係のない身内を持ち出すというところがポイントであって「でべそかどうか」などどうでも良いのだ。
「めくら」とは「目が暗い」ことであって、「視覚障害者」をやまと言葉で表現しているに過ぎない。問題は、言葉そのものではなく、使われ方だ。やまと言葉は良くも悪くも体温を持つ。「〇〇障害者」は体温を持たないので余計なニュアンスが感じ取られない。だから無難なのだ。
さて、「差別用語」が「言われた方がどう感じるか」によって規定されてしまうのであれば、例えば「障がい者」などというおかしな表記はどう捉えれば良いのか。私はこんな歪な言葉こそ絶対に使わないが、障害者自身が「嫌だ」と言われたらやはり使うべきではない、となるのか。
いやいや、障害者だっていろんな人がいて、「障がい者」なんて表記はバカにされてるみたいでやめてくれって人も多い。画一的にルール化等できるはずもないのだ。
あるいは国名としての「支那」はどうか。語源が同じである「China」は良いのに「支那」はダメ。理由はよく分からない。「倭の国」の方がよほど差別的ニュアンスが含まれるのだが。ところで驚いたんだけど、「支那」変換できない。どういう力が働いてるんだ?
というわけで、「言葉による差別」とは言葉そのものの問題ではなく、脈絡や対話の当事者の関係性に依存する問題である。例えば、もし私が乙武さんとセックスした後、「とっても良カッタワ」くらいのことは言うかもしれない。それは私と乙武さんがどういう価値観と関係性を持ち合わせているかによる。
私が特に「めくら」「つんぼ」「かたわ」など差別用語とされる言葉をほとんど使わないのは、第一に、これらの言葉を使わなくても伝える言葉が他にあるからだ。「放送コード」なんてのはナンセンス極まりないが、だからと言って積極的に使う理由にはならない。
例えば、視覚障害者の人に向かって、たとえ差別の意図がないにしても「めくらなんですか、大変ですね」とは言わない。これは別に確固たるラインみたいなものがあるわけでもない。私の感覚の問題だ。でも「めくら打ち」は使う。
所謂「差別用語」を使って、差別する意図があると誤解されるのは面倒くさい。だから使わない、というのもある。障害者当人が使うなら、私もそれに合わせて使う。というか、そっちの方が楽だし便利だし、ハッキリ言ってしまうと、好き嫌いで言えば「好き」の方になっちゃうのよね。
さて、ことの発端となった論争については、そもそも当該ツイートを知らない。少なくとも私は「〇〇という言葉を使ったから」を基準に言説を評価することはほとんどない。やはりそこに至るまでの経緯であり、その人がどういう論旨を持っているかが重要である。
ぶっちゃけ、初対面の、しかも明らかに年下のヤツがタメ口で話しかけてきたって全く構わないのだが、往々にしてそう言う奴は最初から批判目的だったりするし、中身がない。とにかく私は【論旨】【論理性】を重視する。
「差別用語」であろうがなかろうが、「今それ(言葉)言わんでもええやろ」ってケースは至る所にあって、それを「デリカシー」と言う。差別とはデリカシーの問題だ。
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