結婚なんてしとうなかった!
私個人としては結婚にさほどの意味を感じていないので、妻とも別段入籍なんて要らんだろうと思っていたのですが、妻の強い要望で入籍しました。妻曰く、公的に夫婦であることを認められる=社会的な保証を得ることによって安心したかったとのことで、それが女心というものでしょう。
ま、入籍したからと言って何を損する訳でもないので、何の抵抗もせず快諾しましたが、結婚式も披露宴も結婚指輪もなし。結婚記念日も2人とも知りません。妻は妻で入籍は希望したものの、その他のイベント事や儀礼には一切興味がない女性なので楽でした。
後に子供が出来たので、どっちみちそのタイミングでは入籍してたでしょうけどね。
結婚は子供にためにする?
あ、今さらっと書いてしまいましたが、私にとっては子供と結婚はリンクしてるんです。私が結婚に興味を持てなかったのは子供を作る気がなかったからで、子供もできないのに形式上の結婚なんて意味があるのか、と思っていたわけです。基本的には今でも思っていますが。
子供ができれば「男女の仲」以上の集団ができます。単なる男女なら好き勝手にやればいいのですが、子供という第三者が生まれたらそうはいきません。
元来私は所謂「できちゃった結婚」を好ましく思っていないのですが、考えてみれば、「子供ができたらその時に入籍する」というやり方も、まあアリなのかなくらいには思います。
ただね、どうせやるなら子供ができないうちに入籍しておけば?とは思うんですよ。子供作る意志があって避妊せずにやることやってるんでしょ?うちだって「子供作るつもり結婚」はしたかもしれないけど、「できちゃった結婚」はなかったと思います。
夫婦別姓論者は子供に寄り添っているか?
何度も言いますが、夫婦別姓論者って、私の大嫌いな「ワタシガー」族の側面が強く見えてしまうのが嫌なんですよ。子供の視点がどこにもない。
かく言う私も家庭環境が複雑でして、成人するまでに姓が変わっているのですが、まあ物心つくかつかないかの前、つまりは未就学の時点での話だったので直接的にどうこう思う訳ではないにしろ、多少モヤモヤは残りますわな。これが入学後だったらどう感じただろうかって思ったりもするし、小学校1年生の同級生が2年に上がったら姓が変わっていて「?」になったこともありました。夫婦別姓論には、本来最も注視しなければならないはずの子供に全く寄り添ってない感じがするのですよ。
大人はまず大人の権利より子供を守ることを考えるべき
私は子供が好きな訳ではないのです。が、大人としての責任感は相当強固に持っていると自負しています。保育所に自分の子の送り迎えに行けば、ちょっとしたパニックになります。子供が好きな訳でもないのに「大人としての責任感」から過剰なサービス精神が生まれて、話しかけてくる子供に期待される以上のリアクションをしてしまうからで、先生からはちょっとウザがられるほどですよ。
で、なぜ大人としての責任感が強いのかと言うと、自分の生い立ちが複雑だったことと、幼少の頃の記憶が平均より強く残っているからかもしれません。
小さい時、自分の親が死ぬ時のことを想像して眠れなかったり、親の夫婦喧嘩を目の当たりにして自分の生活や倫理の大きな基盤が崩壊していく様に恐怖心を覚えたり、こんなことは誰でも多少はあるはずなんですが、皆大人になると忘れてしまいがちなんですよね。
弱者の目線を持たないエセ左翼もネトウヨも滅びよ
当ブログではジェンダーや子供に関する記事を結構書いていますが、その主眼は常に「弱い者の目線」にあります。
分かりやすい例を出すと電車の「女性専用車両」なんかが典型で、これを「男性差別だ」とするアホな男どもがいます。でも痴漢に遭う恐怖というのは男には理解できません。私も男なので理解できません。
このどうしたって分からないはずの、自分とは違う立場の気持ちを【分かったように】話を進めるからどこまでも交わらないのです。
私のように「分からない」を前提にして必死に想像すれば、分からないなりに「痴漢なんてさぞ怖くて気持ち悪いだろう。人権蹂躙だ」とそのうち何割か程度は共感できます。
さらに子供になると、意思表示もちゃんとできないし、自分が何を考えて何を感じているのかという自己分析もなかなかできません。「夫婦別姓」って、いかにもジンケン大好きな進歩派が言いそうなことですが、そこに子供はいないんですよ。せめて「家族別姓」と呼んだらどうなの?と思ってしまいます。
男女平等が「皆幸せ」に繋がるとは限らない
私のこういった考え方は、あくまで「できるだけ多くの人間が幸せになる」ための手段です。ここは強調したいところで、あくまで手段なので、自分の立場をフェミニストvsミソジニストみたいな短絡的対立構造の中には入れません。
ミソジニストは論外として、自称フェミニストの中には先述のように、目的と手段をはき違えたバカもたくさんいます。そういう人達は自分をステレオタイプにはめ込んでますから、例えば「女性専用車両はあって当たり前」と「男女に能力差はない」がセットになっていたりするんです。
後者はいわゆるポリコレであって、科学的ではありません。私は科学も重視した上でジェンダーを語るので、こういう考え方には真っ向から反対です。
などと考えていると、分かりやすい結論が出てきそうです。私が目指すのは、「皆が幸せ」であって、「男女平等」ではないのですよね。「男女格差」は是正すべきなんです。「男だから」「女だから」という決めつけで、個人の意思や希望をないがしろにされるのは避けられるべきです。でもそれは「男女平等」とはニュアンスが違うんです。「人間平等」の方がはるかにしっくりくる表現です。
例えば女子高生にアンケートを採ると、2人に1人が「専業主婦志望」なんですよ。専業主婦になりたい人は専業主婦になれる社会が理想です。そうなると、結果として男女は有りようは明らかに違うものになって、それを「男女平等」と呼ぶべきかどうかって話になります。
政治の世界にクオータ制をなんて意見もありますが、これも私にすりゃとんでもない話で、そんなことをしたら、能力があるのに落選し、能力がないのに当選するなんてことが起こり得るわけですよ。結果として100%男でも良いし、100%女でも良い。意志と能力の一致する「人間」がその仕事をすれば良いのです。……って考え方なのですよ。
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