心愛ちゃん虐待死について、ある弁護士さんのツイート。
教育委員会の対応はもちろん許されたものではない。
しかし、根本的な問題は親による子供の虐待のはず。
この点について、両親を非難する保護者アカのツイートが少ないような気がしているのは、私がいつもTwitterを見ていないからかな?
? 弁護士岩熊豊和 (@lawyer_iwakuma) 2019年2月4日
虐待親を批判してどうなるの?
人間が集団になると、その性質には結構幅があって、秩序を守れる“平均的な人間”が大多数を占めるわけだけど、それはあくまで大多数であり、大多数だから平均でいられるのであり、平均だから正義であるわけですよ。
そして揺らぎがあるのも当然で、揺らぎがあるってことは平均から外れる人間が出てくるってことです。
それが例えば「図抜けて知能が高い」みたいな外れ方なら良いけど、秩序や平和を好まない性質であったり、暴力を振るうことに抵抗がなかったりという外れ方のヤツもいるわけです。その中でも酷いのが、今般の虐待死事件みたいなことを起こす異常者なんですよ。
で、そういう異常者を批判してどうするって言うの?人格矯正でもするのかい?
あるいは、批判することによって、「これは悪いことだ」と社会に強く認識させ、再発を防ぐ?いやいや、言われないとこれが悪いことだって分からないヤツなんていないでしょ?もしいたとしたら、どっちにしろヤバいヤツじゃん。
一部に必ず異常なヤツがいるという前提が必要
2-6-2の法則じゃないけど、この手の異常者はなくそうと思ってもなくなりません。人間が動物である以上、いじめも虐待もなくならないのです。「こういうヤカラが社会の一部に必ずいる」という前提で、そういう時にどうするかという社会の仕組みを構築することが大事なのではないですか?
今、学校や児童相談所に着眼してマスコミがバズってるのは、そこに解決法があるからですよ。彼らの振る舞い次第で、心愛ちゃんの命が助かった可能性が高いからですよ。
100人のうちに3人いる異常者をどうこうするより、97人のまともな人間が被害者をどう救い出すかを考える方がはるかに生産的なんです。「あいつが悪い!」と真犯人を特定することより、被害者をなくす方が大事なんです。
実は違う問題を同じまな板に上げている
私がよく例示する話で「レイプする男とレイプされる女、どっちが悪い」というのがありますが、まさにこのパターン。「悪い」という観点で言えば、レイプ犯が100%悪いんです。で、女性側が、露出の高い服装で夜中一人歩いていたとしたら、その「悪い」は善悪の「悪い」ではなく、「頭が悪い」のです。
「善悪」と「賢愚」という違う評価基準を一緒の軸に乗せるからアホな議論にしかならんのですよ。
この弁護士先生のツイートも同じ。善悪という評価と解決法の議論をごっちゃにしてるから、こういうよく分からんこと言っちゃうんですよ。司法試験に合格する頭脳を持ってるのにね。
ついでに事件を振り返ってみよう
さて、今般の事件そのものに話を戻します。
私は、ポイントは以下の2点だと思います。
1.父親は何度も引っ越し
2.母親は保身のために自分も心愛ちゃんの虐待に加担
どういうことかというと、まず父親の心愛ちゃんへの執着がすごいんですよ。ただ嫌いとか、煩わしいとかであれば、取り返す必要もないし、引っ越すなんて手間と金のかかることもしなくていいはずなんですが、そこに自分のリソースを注ぎ込む。これは、心愛ちゃんへの虐待に依存してたわけですね。
母親は母親で、「自分も加担しなければ暴力の矛先がこっちに来る」と一緒になって娘を虐待。娘を連れて逃げりゃいいだけなのにそれをしない。この母親も父親(夫)に依存して(精神的に支配されて)いたわけですね。
まあ、ゲロの出そうな話です。
実は私の身近にもある話なんですが、男に依存するタイプの女は、端的に言ってクズだし、子供作っちゃいかんのですよ。あ、いちいち言うの面倒くさいけど、この場合の父親がクズであることは当たり前ですからね。
で、こういう男に依存するタイプの女が惚れるのが、どーゆーわけか、暴力癖を持つクズ男である確率が高い。周りから「あんな男とは別れなさい、子供が出来たら後戻りできない」と注意されて考えつつも、いつの間にやら子供ができて、「子供が可哀想だから引き取って離婚しなさい」と言われても、「彼にはこんな良いところもあるの!」と男をかばってずるずる結婚生活を続ける、というパターンです。
暴力を振るうクズ男や、子供を生贄にしてまでそういうクズ男に依存するクズ女は、どうにかしようと思っても最終的に刑法で裁かれる以外にないわけで、その時点では手遅れってこともあるわけですよ。そして、こういうクズでも生殖能力だけはあるんだから世の中は残酷と言うものです。
クズ同士が結ばれるのは自由。
そして、クズカップルが子供を作るのは「正当ではない」けど「可能」なわけです。んで、それは止めようがありません。
だから、学校や教育委員会、児相なんかの振る舞い方とその法的根拠の整備なんかが肝要になってくるわけです。
コメント