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ナイトスクープ炎上から考える「家庭から子供を引き剥がす政策」

遊ぶ子供たち 育児・教育

1月23日放送分の『探偵!ナイトスクープ』で、家事やきょうだいの世話を一手に追わされている小学6年生のヤングケアラーの依頼が放送され、その家庭が大炎上した。

 

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ナイトスクープ炎上から政治課題を導き出す

当初、炎上の燃料は「小学生に過重な家事労働をさせている」ことのみだったが、後に親のSNSがめくられ、「家事は子供に押し付けて自分は旅行を楽しんでるらしい」とか「マルチ商法にはまっているらしい」と言った燃料が追加投入され、大変なことになったらしい。

親は過去投稿を削除するとともに、アカウント閉鎖。ABC(朝日放送)はナイトスクープの過去回配信サイトから当該ネタを削除、という事態になっている。

こういった話題に関して、常々言っているように私は「断罪」はしないようにしている。炎上騒ぎに参加している人たちだって、全国すべての子育て世帯の実情を知っているわけではない。今回の騒ぎは、小学生自身が「依頼者」となってテレビで取り上げられたからたまたま我々が知るところになっただけだ。

子供が多い家庭はこの家だけではないし、親がマルチ商法にはまっている家庭だってたくさんあるだろう。あるいは子供は少ないけど超貧乏とか、マルチ商法じゃないけど新興宗教にハマってるとか、宗教はやってないけどアル中だとか、アル中ではないけど双極性障害で子供が扱いに困ってるとか。

我々が俎上に乗せるべきは、「このお家」という個別事案ではなく、この話から一般論を導いて「ヤングケアラー」「多子家族の弊害」「親ガチャ」と言った問題のはずだ。

 

子供を家庭から引き剥がそう

この投稿ではあらましにとどめておくが、私は政治的主張として「子供を家庭から引き剝がす政策」が必要だと唱えている。「家庭から引き剥がす」という表現は多少刺激的かもしれないが、「親ガチャ解消策」とか「超子育て支援策」とか、呼称はどうでも良い。要するに、子育て支援の発展形で、「日本に生まれてきた限りは子供に何の不自由もさせない」という行政介入のあり方の提案だ。

この思想において親の役割は、「直接的な世話」と「子供の人生に関わる重要な判断」のみに絞り、後は、お金に関しては(趣味以外には)1銭も出す必要がなく、保育や教育に関しても望んだとおりにできる=親の介入度合を限界まで下げるというものだ。

……とだけ聞くとどこかヤバい思想にも思えるかもしれないが、全く逆だ。

10年以上前の話になると思うが『そこまで言って委員会』において少子化問題が論題に挙げられた。その際、「お金がなくて子供が作れない」と嘆く夫婦(特定の、ではない)に対し、政治評論家の故・三宅久之氏が「昔なんか今よりもっと貧乏だった。それでも子供をバンバン産んで育てあけていた。今の若い夫婦は甘えている」というような主張を展開したのだ。

私からすればこれは全くナンセンスな意見だ。

 

昔と今で違う「子供の値打ち」

まず昔と現在では「子供の値打ちの形」が違う。三宅先生は大正生まれであり、明治や江戸末期の価値観を帯びたメンタリティーの持ち主だったのだろう。なんせ氏が子供の頃には、江戸時代生まれのお爺ちゃんは普通にいたわけだから。

江戸時代と言えば、まず子供が(今で言う)成人すること自体が難しかった。子供を産んだは良いが、1歳になるまでにバタバタ死に、5歳になるまでにバタバタ死に、15歳ごろには半分程度になってしまう。公式の統計はないが、栄養状態の悪いところではさらに酷かっただろう。

つまり、昔子供というのは、産めるだけ産んでちょっとでも「大人になれる子供」の数を増やさなければならなかった。さらにそのうち稼ぎ頭が1人いれば家の経済的な面倒を見てくれる。女はさっさと嫁に行け、という文化だ。

今はと言えば、乳幼児死亡という悲劇はなくなってこそいないが、その確率は比較にならないほど減少し、産んだ子供が大人になるのは大前提だ。逆に言えば、子供を産んだら大人になるまでの責任が自動的に生じることになる。

 

「貧乏」は相対評価

また、「貧乏」という点だが、それは「今と昔」を比べても何の意味もないのだ。比べるべきは「隣」である。昔は全員もれなく貧乏だったので、自分の貧乏が気にならなかった。社会的動物である人間は、絶対評価ではなく、近い人たちとの比較という「相対評価」によって自分の価値観や生き方を決める。低収入層においてうつ病の発症率が顕著に上がるのだが、国民全員が同じ経済レベルであればまた変わってくるだろう。

さらに豊かさという点では時間的な比較も非常に重要だ。明治維新から1990年ごろまで、日本は「今日より明日は良くなっている」という確信が持てる毎日を過ごせていた。長期間、常に上昇トレンドの中にあったわけだ。これは絶対的な豊かさよりもはるかに重要なファクターだ。人間を生かすのは、単に衣食住が揃っているだけでは不十分で、希望や良い意味での刺激である。

 

失われた長屋文化

そしてこの話のキモである。昔の日本人が貧乏でも子供を作れたのは、長屋文化があったからだろう。古典落語を聞くとどこか楽しくなるのは、長屋文化の賑やかさがベースにあるからだ。今は核家族化が進んで、長屋どころか祖父母との接触機会も少なくなっている。子供が大事にされるようになった一方で、子供がどのように育てられているかは「家庭」という殻に包まれて外からは見えづらくなっている。家庭内の暴力や子供への虐待があってもなかなか見えにくい。

核家族化は親にとっても障害になる。コミュ力の高い親ならすぐに「ママ友」のネットワークに入れるが、コミュ障だと完全に孤立してしまう。おそらく虐待に走ったり精神疾患(育児ノイローゼ)になるタイプの親はコミュニケーション能力こそが要因ではないか。

長屋ではこういった問題は起きにくい。なんせ隣で夫婦げんかが起きたら薄い壁を通り越してすぐに分かるのだから。親が喧嘩を始めたら「こっちに避難しとけ」とお節介を焼いてくれるお隣さんがいる。親が忙しい時は隣近所が世話をしてくれる。一歩外に出たら親以外の大人が普通にいて、いろんなことを教えてくれる。引きこもりなど許されるはずがなく、やる気があろうがなかろうが家から引きずり出されて、いつの間にか職人になっている。

私が子供の頃の昭和時代にはこういった長屋文化はまだ残っていた。共働きで両親の帰りが遅ければ、我が物顔でよその家に入り、「夕飯食べていきなさい」と言われたりする。現在では、自分の子がよその家で夕飯を頂くとなったら、ちょっとしたイベント扱いだったりするが。

 

ではその長屋文化を今再現するにはどうすればいい!?って話を後編でする。

 

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