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【復刻】政治ボランティア論

政治・経済

注釈:この記事は2023年6月に「政治ボランティア論」としてnoteに有料記事として投稿したものです。予告通り、1年以上経ったので無料公開にし、ブログにも転載することにしました。ブログ版のみ最後におまけの追記があります。

 

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はじめに

少し前に政治ボランティアのあり方についてツイート及びツイキャスで言及したことをテキストにまとめました。いわゆる文字起こしではありませんが、主旨は音声メディアで言ったことをほぼそのままです。そこに、過去にブログで書いたようなこと、あるいは個別にこれから書こうとしていることも付け足しているうちに文字数が12000字にも達してしまいました。

その文字数とは関係なく、どうせ読むならちゃんと読んでくれという意味を込めて有料ノートにしました。「有料ノートにしか書いていないことが……!」なんてやり方はしません。先述の通り、ほとんどすでに言ったことしか書かれていませんので、単に中身が知りたいという人には購入する意味はありません。

内容の一部は今後ブログでも書くつもりですし、気分次第で1年後に無料でブログ全文掲載とかもするかもしれません。それでも怒らないという方だけご購入下さい。

 

政党ボランティアの喧嘩は政治クラスタの名物

珍しく、私の発言(ツイート、ツイキャス、スペース)から少し波風が立ったようです。発端は政治ボランティア同士の諍い。

私がこのアカウントを作ってからでもすでに7年、さらにその前のホビー垢でも政治クラスタは覗いていたので、結構長いこと、嫌でも政治ボランティアさんのツイートは目に入ってきます。特に改革意識の高い新興政党である維新はボランティアも活発で、同時に諍いや病みツイなんかも目立ちました。良い面でも悪い面でも名物だったわけですよ。

で、何を今更って話ではあるんですが、今回わざわざツイートやツイキャスで言及したのは、直接のきっかけになったやり取りがあまりにもアレだったことと、そして何より橋下徹が大阪府知事に就任してからすでに15年、いまや野党第一党の座が見えるほどまで成長した維新は新しいフェーズに入り、支持者やボランティアの意識もそれに合わせて変革が必要ではないかと思ったからです。

きっかけになったやり取りを具体的に紹介しないのは、それをやると差し支えることと、特段それだけを問題にしているわけではないからです。昨日今日の思いつきではなく、何年もずっと観察してきた上で「いや、おかしいでしょ」と思い続けてきたことをこのタイミングで言葉にしたというお話です。

 

主題は「もったいない」

ってことで、改めて主題を明確にしておきます。

政治のボランティアが、内側でやるべきボランティア同士の喧嘩を公開ツイートで見せてしまったり、エアの形で他のボランティアを陰口を言ったり、あるいはボランティアに熱を入れ過ぎて病んでしまったりするのってどこかおかしくないか?

維新と言えば、何年も支持者同士で「広報が足りない、どうすれば政治に興味のない人にまで維新の良さが伝わるのか」って話を真剣にしてきたはずなのに、ガチの支持者ほどナチュラルに「マイナス広報」をやってしまってないか?

その様子をふんわり支持層や、政治に少しは興味があるけどまだ特定の支持政党がない層なんかが見た場合、どう映るか想像したことあるか?

という問いかけです。

ただ、勘違いしないで頂きたいのは、私はこういう人達をすべて変えようなどと思ってはいません。むしろ、ほとんど変わらないのです。

それでも、仮にその(私から見て)問題行動を取る対象者が10人いたとして、たとえ1人でも認識を改めたり、あるいは口では反発しながらも頭のどこかでこの主張を意識してもらえたのなら、それが成果です。変わらない9人を見てわざわざ「小ライスさんの主張がまだ理解できない人がこんなに」と嘆く人がいるのですが、10人すべてを変えようなどというのは実に傲慢な話です。そもそも私にそんな力などないのですから、ほんの数人でも影響を与えることができたのなら御の字です。

さらに言えば、我々がハッキリと観測できるのは声を上げている人だけです。何も反応しないけど私のツイキャスを聞き、ツイートを読んで、何かを感じながらも声を出さない人だってかなりいるはずです。

少なくとも、私にDMで届いた反応は100%私に賛同する意見でした。反対側からは1件たりとも反応なしです。賛同するにしてもなぜ公開ツイートではなくDMなのか?そりゃそうです。公開ツイートなんかで書いたらどんな目に遭うか、火を見るより明らかですから。その一方で、あれだけ促しても反対側からは1件もDMが来ない。物凄く遠くの方で矢が放たれているのは見えるんですが、1本もこちらに落ちて来ないのですよ。

 

誰に対して言っているか

ということで、この主張は誰に向けて言っているかを改めて明確にしておきます。

まず、「どれほど冷静に論理的に説明したって分からない勢力」があります。次に、「言わなくても分かっている勢力」があります。この2つの勢力に対して私の主張は意味を成しません。

私が対象としているのは、そのどちらでもない、2つの勢力の間にグラデーションのような形で存在する、
「モヤモヤするものがあるけど言語化できない」
「ボランティアをやっているけどずっと違和感を感じている」
「ボランティアをやりたいと思いながらも怖くてできずにいる」
というような人達です。

彼らのうちのほんの僅かでも私の言うことが影響を与えることができたとしたら、それがバタフライ効果となって5年後のボランティア文化が結構変わっている可能性だってあるわけですよ。

なので、目の前で騒いでいる人達を見て嘆く必要などないのです。

 

オーバーヒートでリタイアするボランティア

これずっと言ってるんだけど、政治活動において大事なのは、「入れ込み過ぎないこと」と「感情を動かさないこと」。簡単に言えば、ドライで力を抜いた状態でいれば良い。

入れ込み過ぎると、政治活動が自分のアイデンティティーに関わるようになる。本来、多くの人は子供たちの未来を考えて政治活動を始めたはずなのに、自分のためにやるようになる。

100%の力を出してしまうと簡単にオーバーヒートする。思うような結果が出ないと、対抗勢力への怨恨とともに深い失望に陥ってしまう。そして中には政治活動をやめてしまう人もいる。

だったら最初から60%の力でやれば良い。この40%の「遊び」は実は質をも高める。100%だと「これだけ言ってるのになんで分かってくれないの!」になりがちだが、40%の遊びは「どう伝えれば届きやすいか」を考えるゆとりを作ってくれる。

政治活動においては「自分が頑張ること」ではなく「関心のない人に振り向いてもらえること」を目標にしなくてはいけない。青春的な快感に浸ってしまうと、見るべきものが見えなくなり、反動もかなり来ることになる。

あなたが疲れたり失望したりするのは自由だが、それで子供たちがいなくなるわけではない。彼らは彼らで時間が過ぎ、未来が来る。その未来が希望か絶望かは大人の振舞い次第だ。

この連ツイでは、とりあえず【ボランティア当事者の損得についてのみ】書いております。貴方という人的資産はもっと有効活用できるはずなのに、アクセルの調節間違えて早期に故障しちゃうの、もったいないですよね?もう少し力を抜いて、より長期間の活躍を目指しませんか?という提案です。

 

第三者の目線

次にツイキャスで配信したのが、主体を「ボランティア」から「第三者」に置き換えた上で、「第三者から見てボランティアの振舞いはどう映っているか」というお話をしました。ちゃんとその主語を置き換えているところに留意してほしいところです。

先に端的にまとめてしまうと、

SNS上でのボランティアの不穏な発言(ボランティア同士の諍い)、あるいは現場での気に入らない他のボランティアへの攻撃、こういった行動が公の目に触れたり、あるいは伝わったりするのって、全体(政党)として損にはなりませんか?少なくとも、限りなく第三者に近い私から見れば「ボランティアなんてやりたくない」となっちゃいますよ。

という趣旨です。

何年も必死に活動を続けてきたボランティアさんが辞めてしまう。その際に、「私は私生活をこれほど犠牲にして頑張ってきた。でもこんなひどい仕打ちを受けた」とコメントを残す。果たして、これって誰が得するでしょうか。その人について詳しいことを知っていたら、私も多少の【同情】はするかもしれませんが、ツイッターは全世界無差別に発信される媒体であることを考えると、全く非合理的な言動にしか思えないのです。

この光景を見て誰が「円満リタイア」だと思いますか?「私もボランティアをやってみたい」と思えますか?むしろ、全く逆の方向に作用するのは誰の目にも明らかだと思います。

 

反響

反響は思ったよりは大きかったようですが、その中身は全くの想定通りでした。私の主張に対するネガティブな反応のほとんどは「反発」であって「反論」ではありません。「反論」であるならツイートでもDMでも直接言ってくるはずですが、感覚的反発でしかないので、エアや陰口として言うしかないわけです。※賛同は複数ありましたが、反発する人からの直接の反応は本当に1件もありませんでした。

以下、一応の反論も含めてどういう反発があるか見ていきます。

ボランティアをやってから言え

定番ですね。

こちらはあくまで「第三者から見てこう映ってますよ」という視点の提示をしているだけですよ。それを聞いて自分の言動を変えようと思った人は変えれば良いし、変える必要がないと思えばそのままでいれば良いことですよね。

また、この理屈を言う人は今後、
「政治家をやったこともないくせに政治に口を出すな」
「一般庶民のくせに皇室問題を語るな」
「ヘテロのくせにLGBTの議論をするな」
ってちゃんと言うようにしましょうね♪

「外の活動」が終わったら緑のジャンパーは脱ぐ

これはスペースで直接聞いた意見です。

これはあくまで「私なら」という話ですが、私であれば一旦政治ボランティアを始めて、かつそれなりのSNS利用頻度があるなら、緑のジャンパーは24時間着続けるでしょう。それは面倒くさいといえば面倒くさいんですが、簡単と言えば簡単な話でもあります。だって、自分の意思で政党を応援したくてボランティアをやってるんだから、そのままツイッターでも同じことをやれば良いだけですよね?いや、そもそも「何かをやる」という話ではなく、「政党や支持者(ボランティア)に対してわざわざネガティブなことを言う」のをやめれば良いだけではないですか?

また、ここでも大事なことは第三者の目線であって、あなたが緑のジャンパーを着ているか脱いでいるかは、自身で決められることではないのですよ。

ボランティアなんてオナニーに過ぎない

これは反発ではなく反応のひとつですね。私が提起した問題とは少しずれて、これは個別の価値観・ポリシーのお話です。そして、ボランティアが自慰行為だという認識を持っている人は、ネガティブなことを言ったり、余計なトラブルを生んだりはしないと思います。

ボランティアなんて好きにやらせろ

問題提起そのものを無視されるのであれば、お話はできませんね。私はある立場からの見解を表明しただけで、誰に対する強制力も持ち合わせませんから。

自分で「ボランティア」とさえ称して活動すれば、それが新規ボランティアを減らそうが、政党のイメージを悪くしようが関係ないということですね。(※もし「言ってもないことを勝手に言うな!」ということであれば、なぜ主題については触れようとしないのでしょうね)

ご自由にどうぞ、という他ありません。

なぜネガティブなことばかり拡散するのか

ではなぜテレビのワイドショーで芸能人の「交際発覚」より「不倫発覚」の方に時間が費やされるのでしょうか。それは、他人の幸福より他人の不幸や喧嘩の方にアンテナが向いているのが人間の本性だからです。喧嘩を見るのは娯楽になり得ますが、仲良しこよししているところなど興味は持たれないのですよ。

それは別段意識していなくても同様。目につくのは物騒な光景の方だし、さらにアンチにとっては絶好のエサにもなるでしょう。

小ライスの発言こそボランティアを遠ざける

そうだと思うのであれば、私の発言には一切触れないことこそが正解です。この問題に言及すると、見た人は情報を辿って私のツイート、ツイキャス、ブログに辿り着くことになります。私は得しますが、貴方は損をしますよ?

ほら、また自分が損をする選択をしてしまってるでしょ?

ボランティアvs非ボランティアのバトル?

どうやら一部の異空間では、私が「非ボランティア」の代表を気取ってボランティア全体を攻撃していることになっているようです。

情報というのは、途中で経由する中継設備の程度が低かったり、あるいは悪意によってノイズを混ぜたりされることによって、常に歪めて伝えられるものです。

今貴方がこれを読んでいるということは、混じりっけなしの情報に辿り着けているということなので、小ライスが「非ボランティアの代表としてボランティアを攻撃している」のかどうか確かめて下さい。

※もしそうなら、政治界隈で懇意にしている多くの現役のボランティアさん達も敵に回すことになりますね。

久しぶりに例のフレーズを書いておくと、

安直な対立構造を作るヤツはバカなのでスルーしましょうね。

 

加害と被害の不均衡性問題

これまた汎用性の高い話をひとつ。

言葉を含めて、いじめや暴力を【自己申告によって】定量化したとしても、「いじめ」と「いじめられ」は等価になるどころか、2桁違ってくると思う。そのくらい、人は加害については鈍感だ。

俺ツイートです。

例えば、中学3年間いじめられていた子がいるとします。この子にとっての中学時代は恨みつらみとトラウマにまみれた暗黒の歴史になるでしょう。一方のいじめた方と言うのは、文集には「充実した3年間でした」と、寄せ書きには「俺たちずっと友達!」などと書いて、幸せそうに卒業していったりするのです。

いじめられた方は「いわれなき暴力を受けた」と思っていても、いじめた方は「間違いを正した」とか「遊びのつもりだった」とか言って、いじめたことにはしていないのですよ。

これが「加害量と被害量の総和不均衡」という話です。人は誰しも被害には敏感で加害には鈍感なもの。「小ライスの発言で気分が悪くなった」という人は、自分の病みツイ、エアリプ、現場での振舞いで誰かの気分を害してないと言い切れますかね?

私たち、世の中を良くするために、すっごく、頑張ってるよっっっっネーーッ!?

ボランティア活動って、すっごく、楽しいよっっっっネーーッ!?

ボランティア仲間って、みんな、すっごく、仲いいよっっっっネーーッ!?

「あ、アイツ、ビラ50枚配って帰ろうとしてるっ!ピギャーーッ!」

見るべきものを見ないようにしてませんか?

 

アリの社会の多様性

冒頭で述べた通り、私は突発的にこれを言い出したのではありません。

「しなくてはならない喧嘩をするのは勇者。しなくても良い喧嘩をするのは愚者」

これは特定の維新議員さんに向けた言葉ですが、すごく汎用性が高いんですよ。しなくても良い喧嘩をするのはエネルギーの無駄遣いだけではなく、自分や自分に関係する人の信頼・イメージを毀損するという点で大きな損をするのです。

おかげ様でアクセス数が増えたこの「ツイッターヤンキーから逃れる方法」という記事では、小さなクラスタを作って自分達の「正義」に酔いながら「敵」を設定し、「敵」と認定したからにはどんな攻撃をしても良いという阿呆どもを俎上に乗せています。

さらにツイキャスでは「アリの社会性」の話をしました。アリは巣の規模が大きくなるほどに多様性に対する許容度が向上し(女王アリ以外のメスが産んだ卵が壊されにくい)、巣の規模が小さくなるほど多様性の許容度が低下する(女王アリ以外のメスが産んだ卵が壊されやすい)のだそうです。

これはまさに人間釈迦においてもクラスターが小さくなるほどにヤンキー性が高まって、「自分たちの正義」が暴走する様と相似しています。

 

「負の生産」とは

我々が文明的な生活を送るために工業は欠かせません。一方で、工場から出る廃棄物、家庭から出るゴミ、自動車から出る排気ガスは公害を生みます。これを私の学生時代は「負の生産」と呼んでいました(今は「負の外部性」とか「外部不経済性」などと呼ばれるらしいです)。正の生産をするためにはどうしても副産物としてある程度の負の生産を生み出してしまうわけです。

しかしながらこの負の生産たる公害は、私が子供の頃に比べるとはるかに小さなものになっています。工場からの液体を含む廃棄物には厳しい規制がかかり、川は格段に綺麗になっています。自動車も燃費が著しく向上した上にフィルターの性能が上がり、街の空気もやはり格段に綺麗になっています。

さて、ボランティアを「正の生産」と見立てた場合、「負の生産」は生み出されているのかいないのか。生み出されているとしたら、どの程度か。

政治クラスタらしい例に言い換えると、その「行政コスト」は「最低限必要なコスト」ですか?「無駄遣い」ではないですか?という問いかけです。

 

「労働」と「生産」の違い

経済政策の文脈において、私はよく「労働と生産の違い」の話をします。

すなわち、「午前に穴を掘って、午後にその穴を埋める」という作業は、現場の人間にとっては汗を伴う労働だが、社会のためには何ひとつ役に立ってない。利権ありきで名目上の仕事を作ってばらまくようなやり方で国は成長しない。……というようなことです。

日本人は「労働」を無条件に価値のあるものと考えているので、無能な政府や会社や上司の言うことを聞いて「ハンコひとつのために自宅と会社を往復する」のが仕事だと思い込まされているのだ、と。

この話が今回のテーマにどういう関係があるのか?

ボランティアだって本来は「世の中のため」であり「政党のため」であり「立候補者のため」だったのに、いつの間にかその主体が「自分」に置き換わり、「縁の下で汗をかいているオレ」「私生活を犠牲にして頑張っているワタシ」というセンチメンタリズムつゆだくの物語を創ってしまいます。そうなると、私のようにツイッターやブログなどを使った“言論支援”より現場仕事の方が格上とも思うでしょうし、1日中汗を流している自分から見ると30分で帰ってしまうボランティアを見たら「おい待てこら!」となってしまうのかもしれません。

 

ボランティア参加心得

政治ボランティアが集団的に大規模であれば、もっとシステマティックに「今〇〇の事務所で△△要因が足りない」などと“掲示板”に貼っておいてそれをボランティアが手伝いに行くなんてこともできるかもしれませんが、実際は多分そんなことはできませんよね。おそらく選挙運動は事務所(候補者)に属する形になり、小規模な集団の中で仕事を手伝うことになるのでしょう(参加したことがないので想像ですが)。

となれば、人間的な当たりはずれという要素が大きな比重を持つことになります。

もし貴方がメンタル的にか弱かったり、コミュ障だったり、不器用だったりしながらもボランティアで役に立ちたいと思うのなら、まずはコンシェルジュがいるかどうかをチェックすべきだと思います。つまり、不器用なポンコツである自分でも適切な指示をくれて、かつウェットな人間関係には巻き込まないような候補者、秘書、先輩ボランティアがいるかどうかです。

私であればそこまで考えることはないでしょう。災害ボランティアだと善意だけが先走ってとりあえず現地には駆け付けたものの自分の食事すら用意できずに足を引っ張るなんてことがちょくちょくありますが、政治のボランティアの業務はかなり定型的なもので、簡単な予習さえ済ませればあとはその業務(他人に声をかける、ビラを配る、ポスティング等)が自分にこなせるかどうかというだけの判断になります。

 

政治ボランティアは楽しいのが当たり前?

「ボランティアはサークル活動みたいなもの」
「ボランティアは皆楽しくやっている」

このような意見もしばしば聞かれます。しかし、これは大きな間違いです。

政治ボランティアはサークル活動のようにみんな仲良く楽しくやって時には飲み会を……と言うのはあくまで結果であって、それが当たり前であってはいけないのです。

例えば、政治ボランティアに限らず、ツイッターではいつの間にやら名もなき、そして明確な枠もないグループができていることはよくあることです。それが元々20人の規模だったとしましょう。さて、この20人という数は増えていくでしょうか、あるいは減っていくでしょうか。

多くの場合、こういうグループは数を減らすか、サブグループが出来ていくのです。誰でも振り返ってみると「あれだけ仲良くしていたのになぜ?」という感じで誰かがいなくなっていくところを何度も目にしているはずです。あるいはサブグループを作ってはそこにいない誰かの話をしているはずです。

これは当ブログの大テーマのひとつである「人間の社会性の副作用」の問題でして、誤解を怖れず言うなら「誰かと仲良くする快感と誰かを排除する快感は同質」なのですよ。

それを踏まえて考えると「みんな仲良く楽しくやっている」と言ってる人は、【残っている人】であることに留意しなくてはいけません。そして「みんな仲良く」が当たり前になってしまうと、「和を乱すヤツ」への取り締まりが伴うのです。

 

病んでしまう人の間違った目標設定

当たり前のことを言いますが、政治ボランティアをする人って政治に興味があるわけですよね。で、利権がらみ以外で政治を持つ理由はと言うと、「世の中おかしい!」という感覚があるからですよね。つまり、正義です。

利権のための行政、不公正、不平等、弱者の存在、権力者による搾取……キーワードを挙げればキリがありませんが、何にせよ不満があるから政治に注目することになるわけですよ。当然ながら、そこに愉快な話などあるわけがありません。

そして政治に興味を持った人は、どんな形か知りませんが、「政治の理想像」みたいなものが頭にあるかもしれません。

さて、その理想像みたいなものがあるとして、病みやすい人は「まだ自分の理想通りになっていない」というところだけを見てしまいがちです。例えば維新であれば「まだ政権どころか立憲民主党にさえ負けている」と。その理想像を「千里」だとして、残りの距離を見てしまうのですよ。

「千里の道も一歩から」これをどう解釈するかなんです。「1歩だけでも、0よりは多い」と考えるのか、「1歩進んでも残りはやっぱりほぼ千里」と考えるのかで、モチベーションが変わってくるんです。

私のセガレ君が昔空手道場に通っていた時によく言っていたこと。
「試合で負けるのはかまわん。ただ、2時間の稽古をした自分は稽古をしていない2時間前の自分には勝てないとおかしい」
運動神経が悪くて軟弱なセガレ君は試合で勝てないのは当たり前なんです。それは相手が強いから。もちろん勝つ可能性を高めるために稽古をするんですが、勝てるかどうかはやってみないと分かりません。これは「できるかできないか」の問題です。でも真面目に稽古をするのは「するかしないか」の問題であり、稽古をする2時間前の自分には絶対に勝てないとおかしいのです。

政治ボランティアでつい愚痴をこぼし、病みがちな人は、強大なライバルと大きな理想像を見て、残りの「ほぼ千里」を再認識してため息をついてしまう人です。きわめて微力なたかだか1個の人間が、傲慢な目標設定をしてしまっているのが問題なのです。もちろん、【その方向】に進むのは良いことです。でも貴方は貴方なりの目標設定をしなければいけないのです。

簡単な話、1年間のボランティア活動をやったとして、その1年間は役に立たなかったと思うかどうかです。さすがに役に立たなかったなんてことはありませんよね?だってチラシ10枚配ったらチラシ10枚分だけは貢献しているんですから。

私の場合だと、こうやって政治に関する言論活動をやっているわけで、流動的ながら維新支持者であるわけですよ。すると、大阪都構想住民投票が2度も否決されたとなれば、それなりに落胆はするんです。でもその落胆は1分くらいのもの。私は神でも強大な権力者でもないので、できることは知れているのです。そして、どんな結果が出ようとも、やることはそれまでと変わりません。望ましい結果が出なかったからと言って、それまでやってきたことが無駄だとも思いません。今自分が蒔いた種が10年後に何らかの形で花を咲かせる可能性だってあるわけですよ。

もちろん、実際にはその花が自分の蒔いた種のものかどうかなんて分かるはずもありません。なのでそこは空想を楽しむのです。こんなブログでもそれなりのアクセス数はあり、その中には現役の政治家だっているだろうし、未来の政治家だっているでしょう。もちろん政治に直接関わっているかどうかも大した問題ではありません。教員、役所勤め、八百屋、普通のサラリーマン、ひょっとしたらGAFAのような企業を立ち上げる人だっているかもしれません。何にせよ、たとえこんな零細ブログであっても、毎日数百のアクセスがあると、誰にどんな影響を及ぼしているか分からないというところにロマンがあるのです。

 

「感情」を「情熱」に精製しよう

「人間は感情の生き物。だからどこかで吐き出すこともやむなし」

という考え方は分かりますよ。分かりますけど、それでも私はこの考え方には反対です。

私は言論活動においては徹底的に感情を排除します。もちろん感情がない訳ではありません。感情はありますが、それを内側で処理してしまうのです。具体的に言いますと、感情を「粗雑な感情」と「情熱」に分けているのですよ。

喩えるなら、感情を抑制できない人と言うのは、油田から出てくる原油をそのまま燃料として使っているのです。原油を無理やり車のガソリンタンクに入れれば、うまくいけば少しは走るかもしれませんが、パワーはなく、速度も出ず、走るほどに不純物が溜まってあっという間にエンジンが壊れてしまいます。これが「病み」や「攻撃性」となって表れます。その原油も精製してガソリンとそれ以外(ナフサ)に分けて、車にはガソリンの方だけを使うようにすると、車の本来の能力が活かせ、故障もしにくくなります。

自分の感情についても同じことをやれば良いのです。原油をガソリンに精製するように、感情を精製して「情熱」と「それ以外の粗雑な感情」に分けてしまえば良いのです。

この線引きをして取り出した「情熱」は、ガソリン同様、扱いが楽で、パワーが出せ、調整もしやすい便利なエネルギーになります。要するに純粋に活力源(活動するためのエネルギー)であり、いわゆる「ハートは熱く、頭はクールに」の状態を作り出すことができます。エネルギーは十分にあるけど頭がクールだと、目的と手段を明確に設定できるようになります

これをできない人が【非論理的な言動】をとってしまうのです。言わば頭を含めて体が不具合を起こし、40℃の発熱状態でものを言っちゃうわけです。もちろんそんな言葉が理性的であるはずがありません。そこに、一旦「人間は感情の生き物」というエクスキューズに頼ってしまうと、あらゆる暴力的言動まで許されることになるのですよ。「ある程度はしょうがない」の「ある程度」ってどの程度なの?というお話です。

 

本当の頭の使い方

「小ライスさんみたいに感情を捨ててあらゆることを合理的に考えてたら何も楽しくないでしょ」

なんてことをちょいちょい言われたりもしますが、そんなことはありません。すごく面白いですよ。

私からすると人間関係(特に政治クラスタ)はシミュレーションゲームのようなもの。『ポピュラス』とか『信長の野望』とか『ときメモ』みたいなゲームを遊んでるような感覚です。常に俯瞰で眺めているので、普通の人には見えないものが見えるようになります。「あ、武田が滅んだ。あの周辺が不安定になって次は……」とか「今、ドコドコ方面で少し俺の好感度が上がってる!」とかそんなノリで分析し、予想するわけですよ。

自分で言うのもアレですが、私は頭が良いとよく言われます。しかしながら、これまた大きな勘違いです。

いわゆる「頭の良さ」と言うと、「単位時間内に処理できる情報量の多さ」と言って良いと思いますが、私はこの点で言うとむしろ頭が悪いのです。それを知っているから、そもそも脳内に処理すべき情報を選別しているのです。スペックの限界を把握しているからこそ、オーバーヒートを起こさないよう、考える内容を限定しているわけです。

一方、自分の頭の悪さを自覚していない人は、小さな俎板の上にアレもコレもと食材を並べて、サラダ用の野菜に変な味を付けてしまったり、生魚を腐らせてしまうようなことになります。私はこれが大嫌いで、スペースなんかで難しい議論をしていても、とにかく論点が散らかることが多く、それこそ私の頭が付いていけなくなるんですよ。そして当人たちも何を喋っているのか分かっていない。なのに「有意義な議論ができた」みたいな顔をしているのが、もうモヤモヤして堪らんのですよ。

限られた頭脳を効率よく使うためには、「一旦情報を整理する」ということが何より大事なんです。

 

まとめ

●「自分が加害者であるはずがない」という思い込みは捨てよ

●感情的になるのは損、感情は「情熱」に精製せよ

●「努力」「労働」より「成果」「生産」

●自分の評価は、過去の自分を基準に

●人の振舞いを評価するな、人の振りを見るなら自分の振りを直せ

●人の振舞いを見る目は不要、もう一人の自分を作って客観的に自分を見る目こそ必要

 

ブログ版追記「パブリックの視線」

この部分はブログ転載時に加筆したものです。

民主主義における政治には、その前に選挙と言うプロセスがあります。子供でも知っていますね。

その選挙をする「投票権」は誰が持っているかと言うと、成人の日本人全員です。国政選挙だと1億人ほどいることになります。しかしながら、せっかく与えられた貴重な選挙権もそれを行使する人の割合は最近だと半分もいません。日本人の半分は政治に興味がないのです。そして必ず選挙に行くという人達の中では、利権をベースにした組織票や、凝り固まったイデオロギー、現状維持バイアスなどによって、ろくに政策も見ない人の方が大勢でしょう。

さて、維新のような新興の、そして改革派政党の場合、「政治に全く興味がないわけではないが、投票に行くのは面倒くさい」「投票に行きたいと言う気持ちもあるけどどこに投票すれば良いのか分からない」という境界線上にいる人達にこそ目を向けなければなりません。

ま、こんなことは維新支持者ならほとんどの人が言ってることなんですが、「じゃあそれって具体的にどうすればいいの?」が分かってない人が多すぎるんです。

私は長年、立候補者を含めた政治家にも特定政治家あるいは政党の支持者にも「支持を拡大したければパブリックの視線を持て」という主張を続けてきました。境界線上にいる人達の目に止まるにはどうすれば良いか、そしてその時どう見えているか、です。

と、具体的なことを書き始めるとさらに長くなる上に、先日の箕面市長選のことまで語ることになるのでこの辺にしておきます。キーワードは【パブリックの視線】です。

 

文庫本10分の1程度におよぶ長文のご精読、ありがとうございました。

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