百条委員会は学級会?
斎藤兵庫県知事パワハラその他疑惑騒動についての百条委員会は、予想通りの学級会のようで。
そりゃそうですね。1人最低1台のスマホを持っている現代において、これほど「酷いパワハラ」をしているとされている知事が実際にパワハラ的言動をしているところがまだ何一つ証拠として出てきていないのです。
百条委員会は、「偽証が罪に問われる」という前提がつくだけで、結局は今までやってきた斎藤知事を糾弾するための材料を集めて、証言できる人はそこで証言するというもの。非常にどうでもいいやり取りをおさらいするだけの集会です。
その開会中において委員長である自民党所属県議の奥谷謙一氏は、斎藤知事に対し「リーダーとしての資質を欠く」と指摘。
ん?あれあれ?
百条委員会ってそもそも議会から調査権を与えられて、何かしらの判断の材料となる情報をまとめるための組織では?この段階で知事としての資質を判定するなんてことをやってしまう委員長って、委員長でありながら百条委員会の性質を理解していないのではないですか?それとも私が勘違いしているのでしょうか。
ま、百条委員会と言ってもそこにいるのは基本的に議員であり、議員って要するに「民主的に選ばれた素人」のことですから、法廷のような運営ができるかって言うとその保証なんてないんですよね……って、奥谷県議、弁護士ではないですかああーーっ!!じゃあ、ご存じのはずですよね?「疑わしきは罰せず」って。
分別と手続き
ここで俺ツイート。
何のことはない、泉房穂氏にとって百条委員会は「ホシが自供するまで解放しない拷問の場」であり、それでも態度を変えないから「不信任案を出せ」と議員に迫る。つまり、百条委員会自体は彼にとってどうでもいいのだ。
そして百条委員会委員長の奥谷県議は斎藤知事が「リーダーの資質に欠ける」と断ずる。百条委員会は臨時に招集された調査組織であって、人物評価の場ではない。
この両者は事実解明の前にすでに評価を確定させてしまっているという点で分別もなければ「手続き論」も理解していないのだ。
「事実解明主義」という言葉を使い始めたのは橋下徹氏だったか。「事実解明」は思想ではなく、我々が公正に社会を運営するための手段だ。「事実解明主義」なる言葉があるとすれば、その対義語になるのは「事実なんてどうでもいいから好き嫌いで誰かを罪人扱いしていい主義」になるだろう。
先日維新に入党した南原竜樹氏は「支部長として」とわざわざ断った上で「斎藤氏はすぐ辞任すべき」と主張した。その根拠は「2人も人が死んでいる」かららしい。すでに削除されているが、彼も分別や手続きを理解できていない子供と言うほかない。
私が彼を批判したら「あまり批判するな、維新支持者が狭量だと思われる」とリプが付いたが、もし自分が人殺し呼ばわりされたらどうだろうか。これほど人間の尊厳を傷つけるレッテルもないだろう。
繰り返すが、私は斎藤知事を擁護する立場ではない。知事として、あるいは人間としての評価も定めかねる。私はしかるべき手続き論の擁護者であり、「疑わしきは罰せよ」という魔女狩り時代の倫理観を敵視しているだけである。
対立構造に入り込んでしまう愚かしさ
ま、何が言いたいかと言うと、
『兵庫知事の不信任案提出へ 県議会第4会派、同調呼びかけ』とのニュースだが、ここは政局ではなく、“全会一致”での『不信任決議の可決』をお願いしたい。議会の解散をおそれて「まずは辞職勧告決議から」との声が出るかもしれないが、それでは事態は打開されない・・・ https://t.co/TVa0iMSmuA
— 泉 房穂(いずみ ふさほ) (@izumi_akashi) August 31, 2024
という泉房穂氏のように、「斎藤が悪い」「だから今やめろ」「すぐ辞めろ」というような言論に何の意味があるのか?と言うことです。この人も、そして同様に斎藤辞めろ!を繰り返す橋下徹氏もまた弁護士というのが面白いですね。
ここにしかるべき【分別】も【手続き】もありません。神鍋高原から正式に怒られた丸尾まき県議に至っては「どのルートが最も早く斎藤知事を辞職させられるか」という、あまりに本音をぶっちゃけすぎた趣旨のポストまでする始末。
つまり、彼らにとって「何をもって正しいか悪いか、無罪か有罪かを決めるか」なんてことはどうでも良いわけでして、まずは「斎藤辞めろ」という結論があってそこに後付けで理屈を当てはめているだけなんですね。
問題は「誰の味方か」ではなく、プロセス
こういう、「結論ありき」あるいは「対立構造ありき」の議論の進め方については「アホのやること」だとして昔から批判しておりました。善良で情弱な大衆はこういう対立構造の罠にはまりがちなのです。
対立構造でしか考えられないので、「証拠もなしに断罪するのはおかしい」とでも言えば、相手方は「斎藤擁護」「維新信者」というレッテルを貼っておしまい。私は誰の味方でもなく、敢えて言うなら「論理」「手続き」「科学」の味方です。逆に、問題解決(真実解明)プロセスさえ正常に機能してさえいれば、その結論として「斎藤知事はとんでもパワハラをやっていた」という事実が判明しようがしまいがどうでもいいことなのです。それが【客観的事実】となった時、批判したい人は堂々とやれば良いでしょうし、そこには私だっているかもしれません。
先述した「対立構造に入るな、アホになるぞ」論は、つい先日出版された橘玲著『DD(どっちもどっち)論 「解決できない問題」には理由がある』に見事にまとめられています(まだ途中までしか読んでませんが)。
どういうことが書いてあるかと言うと、
「自分陣営を絶対善、敵対陣営を絶対悪とした上で善悪二元論に入ってしまうと本質を見誤る。本質を見ようと俯瞰で観察すると『どっちもどっち』としか言いようのないことが世の中には多い。しかしながらこういった冷静で客観的な見解ってウケが悪いのよなー」
みたいなことです。
この書籍についての詳細は後日、ブログかツイキャスで改めて語ると思います。
今の橋下徹に「分別」はあるか
では改めて、「分別と手続き」という観点から斎藤知事騒動を語るとどうなるか。
まず橋下徹氏の「斎藤辞めろ」論なんですが、その主張の根拠は斎藤知事の発言にあった「嘘八百」という言葉とのことで、この言葉選びに問題があったことは私も賛同しているところです。問題は【量刑】の違いです。
私からすれば斎藤さんの発言はかなりの微罪、せいぜい数百円の万引き程度でしょう。一方の橋下氏は強盗殺人くらいの勢いで裁こうとしています。
ここに何の違いがあるかと言うと、橋下さんはこの言葉を「斎藤知事が公益通報を握りつぶした象徴」として扱っているという点です。私からすれば、斎藤さんのこの発言は、例の文書がまだ純粋な(?)「怪文書」だった時期で、怪文書著者である元局長もそれを認めていたわけです。客観的事実に基づかないあれやこれやが書かれていたのですから、「嘘八百」とも言いたくなるだろうし、実際にその言葉を発したところで大した問題ではありません。
何より、この文書が仮に「通報」や「告発」だとしても、斎藤知事が処分を下したのはすでに外部に送信された後であって、「握り潰す」ことはしなかった(できなかった)のです。通報・告発を握り潰すというのは、そういう動きを事前に察知し、脅迫なり何らかの取引なりで外部に出るまでになかったことにすること、でしょう。
私から見れば今の橋下さんにはかなりの認知の歪みが生じているように思えるのですが、そこに原因があるとすれば、まず彼が元々「権力ガバナンスの原理主義者」であること、そして今現在の事情として「国政維新嫌悪症」という病気に罹っていることでしょう。
実を言えばこの2つの要因について、私は部分的に共感する立場なのですが、それは今般の騒動においては雑音となるため私は触れません。しかしながら橋下さんはどうも、この2つをこじらせて錯乱状態にあるのではないかと思います。
現役時代の橋下徹も同じことを言ってた?
いや、良いんですよ。斎藤さんを批判したいならどうぞって話なんですが、それに伴うべき行政組織の闇の話に一切触れないのはどうしたことでしょうか。
橋下徹と言えば大阪で大改革を起こした地方行政史上の超偉人です。腐った行政組織と戦った勇者です。であるなら、仮に斎藤さんに責められるべきところがあったとしても、右手で斎藤さんを殴るのなら、左手で兵庫県の行政組織を斬ってしかるべきでしょう。
すでにこの騒動の文脈において、月2~3日の出勤で27万円の月給が得られる得体の知れない天下り用外郭団体などが浮き彫りになってきましたが、他のコメンテーターはともかく、橋下さんがここに触れないのは不可解としか言いようがありません。
橋下さんが今の立場、つまり維新OBで今は何の肩書もないコメンテーターでありながら、維新の国会議員にはひどくイラついているという状況でなかった場合でも、同じことを言っていたでしょうか。甚だ疑問です。
というわけで、斎藤知事の騒動に関しては個々の記事ごとでまとめることが大変で、まだまだ語るべきことがありそうなので、「連載」の形にしたいと思います。
では、次回も元気にお目にかかりましょう。
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