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「イジリ」と「イジメ」の違いとは。

差別

※当初、徒然なるままに書いて一括ツイートする予定だったのですが、結局まとまらないままです。読み苦しいと思いますがご容赦を。

 

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イジリかイジメかはされた方が決める

「イジリとイジメの違い」「人を傷つけたり差別したりしない笑いなんてあり得るか」は私にとって長年の研究テーマだ。いや、答えは出てるんだけど。

イジる側が「これはイジリだ」とか、子供たちのやり取りを教師が「遊んでいるだけだと思った」などと言うのは虚しい。それがイジリなのかイジメなのかは、基本的には、【されている側】が決めることだ。

「肩を叩かれてもセクハラ」というのは馬鹿馬鹿しいほどに窮屈に思えるが、究極的にはこれを肯定すべきだろう。肩を叩いただけでセクハラと言われるのは、やはり言われる側が悪いのだ。相手を選ぶ能力がないのである。

「イジリ」と「イジメ」に明確な境界線を設けるのは難しいが、ひとつあるとすれば、「された側が結果として得する」のであれば少なくともイジメではないと言えるだろう。

違う言い方をすると、それによって相手のポジティブなリアクションを想定でき、コミュニケーションのラリーが続くものなら「イジリ」、ただ困ってる様子を見たいだけなら「イジメ」だと言えるかもしれない。

 

マイノリティーはヒーローであり弱者である

マイノリティーは異彩を放ち、良いか悪いかは別として、常にマジョリティーの好奇の対象となる。マイノリティーとは簡単に言えば「平均から外れた存在」であり、マジョリティーは共感ができないから好奇の対象となってしまう。

例えばドラゴンボールの悟空にしろワンピースのルフィにしろ、医者に連れて行けば何らかの発達障害だと診断されるだろうが、これは平均から外れた部分が魅力となっているという例である。小説に描かれる織田信長や坂本龍馬なんかも同様だ。

悟空にしろルフィにしろ、初対面ではその奇異な言動により嫌悪感を持たれることがある。好かれたり尊敬されたりする前にはちょっとした関門があり、その関門は「自分と言う人間を知ってもらうこと」によって突破できる。

 

集団は個人の判断力を奪う

さて、価値観や知識を概ね共有できている集団Aがあるとして、そこに全く別の価値観や知識を持つ個人Bが接触したとする。集団Aはまず個人Bに対し、その大きさはともかくとして嫌悪感を抱く。

これは結構昔に書いた人間の社会的行動だ。人間は3人いれば2つのグループを作り、マジョリティー(2人)はマイノリティー(1人)に対して「あいつ何モンなんだ?」という意識を持ってしまう。

集団Aが価値観を全く共有できないBの言動を面白く思い笑う。まあ、わかる。その時点で集団AのBに対する意識は流動的だ。好意を抱くか嫌悪感を抱くか、どっちにも転ぶ可能性がある。が、最初は「異物」に対して、度合いはともかく、嫌悪感を覚えるのが人間の社会性だ。

私は、あくまで個人的ポリシーとしてだが、そういう場面で、「Bが訳も分からず笑われている」=「笑い者になっている」という状況の変化を試みるようにしている。Bが悪人でなければ、の話だが。自分の介入によってなんとか「Bが集団Aを笑わせている」構図を作り、さらには集団Aの流動的な意識を固定的な「好意」に持っていきたい。

よく知らない者に対して持ってしまう「嫌悪感」を「好意」に転換させるのは簡単で、その対象についてよく知れば良いだけだ。なので、Bについてよく知ってもらうよう、情報を引き出すことに注力する。

 

実体験:「疎まれる存在」から「マスコット」になった人

ちょっとここから少し長い私が経験した実例を。

あるコンピュータ関係の職場でプログラマーがいた。私にとっては年齢も職歴も2つくらい上の先輩だ。同僚ではあるが、私たちの仕事はパソコンのインストラクターやサポートであり、プログラマーである彼は基本別室で単騎の職務をこなす。

その彼は、漫画に出てきそうないかにもプログラマーという感じの人で、感情表現をほとんどしない、思考は論理的だが必要最低限の連絡以上のことを喋ろうともしない、一言で言えば変人だった。広い意味ではコミュ障かもしれないが、仕事に必要な内容は理路整然と話すので狭義ではコミュ障とは言えないだろう。ボソボソしか喋らないことや雑談ができないことなどをコンプレックスにも思ってる様子がない。そもそも人との交流を求めていないように見えるし、周りの同僚も彼と積極的に交流を持とうとしなかった。

私は後にその(下戸である)彼からサシ飲みに誘われることになるのだが、それは後ほど。

私からすると彼の個性は大好物だ。どんなことに興味を持っているのか、何を見て笑うのか、探ってみたくて仕方がない。この類の人は知識量がきっとすごい。喋ってみるといろんなことを教えてくれそうだ。

ほんのちょっとした隙を狙ってはボケてみたり雑談を振ってみたりして、彼の感性や知識を探る。すると彼のプログラマーとしてのプロ意識や前にいた職場で知った業界の裏話なんかが聞けた。ボケに関しては「は?」と言われることも多々あったが。

私がその職場に入ってから、田中盛男(仮名)という名の年齢も職歴も上の先輩に「もりぴー」という愛称を勝手につけてタメ口をきくようになるまで2ヶ月もかからなかったと思う。互いに敬語だったが、当然後輩がタメ口なんだから向こうもタメ口になる。そして気づけば周りに「田中さん」なんて呼ぶ人はいなくなった。皆「もりぴー」あるいは「もりぴーさん」と呼ぶようになっていたのだ。

近寄り難い理系バリバリのコミュ障プログラマーは、いつの間にやらそのフロアのマスコット的キャラクターになっていたのだ。

「小ライスくん、今日もし時間あったら飲みに行かへん?僕は酒飲めんから串カツ食べるだけやけど」

と誘われた時はさすがに驚いた。ひょっとしたら彼が職場で初めて誰かを飲みに誘った相手が私だったかもしれない。もちろん私は嬉しくて誘いを受けて飲みに行った。私はビールで彼はウーロン茶。

その後、他の同僚たちと行く飲み会でも彼は誘われるようになった。でも1回だけキレたことがあった。酒好きの後輩から「いいから1杯だけ飲んでみなよ」としつこく言われたからだ。

私は酒飲みで毎日飲むが、飲めない相手に強要することは絶対にない。酒は好きだが酔っぱらいは大嫌いだ。「いいから飲んでみなよ」は相手のリアクションを想定していない「イジメ」なのだ。

 

これは「イジリ」か「イジメ」か?分からない時は…

さて、コミュニケーション方法論としての「イジリとイジメ」の違いは、私にとっては、その対象者と他者の間のコミュニケーション幅が拡大されたり深化するかどうかである。…と書くと小難しいが、要するに、私と言う介入者によって、少しでもその人の魅力が引き出され、皆がポジティブな意味でその人のことをよく知るようになったり、付き合う人の数が多くなったりするのであれば「イジリ」である。

この「イジリ」と「イジメ」の間の境界線はグラデーションになっていて、子供や幼稚な大人だと区別が付きにくい。だから「イジリ」がいつの間にか「イジメ」になっていても、当人たちは自覚がないのだ。理性があるなら、その瞬間に少しでも「これって“笑い者”にしてしまっているのでは?」と自身に欺瞞の目を向けてみるべきだろう。

他方、エンターテイメントの世界では、「笑われる」という体で笑わせるのがプロの芸人だ。チャップリンにしろ志村けんにしろ出川哲郎にしろ、形としては「笑われている」のだが、振り返ってみると、自分たちは笑わされていたことに気づく。だから、「あんな風になりたくない」とは思わず、むしろ憧れの存在になる。

 

さんまと松本人志の共通点

お笑い界と言えば、明石家さんまと松本人志という2大重鎮には大きな共通点がある。それは、「不祥事タレントの扱い方」だ。不倫、暴力、脱税等タレントが謹慎する理由はいろいろあるが、難しいのは復帰した際の扱われ方である。しかし、とりあえずさんまか松本の番組に出ておけば、「こうやっていじって皆で笑といたらええんや」と「取扱説明書」を作ってくれる。すると別の番組に出た時でも同じ手法でいじってもらえる。当人も周りもこれで安心できるのである。

副作用としては、「一生それをネタにされる」ということ。前薗は8年前の暴力事件をいまだに松本にいじられるし、陣内智則は10年以上経ち、別の女性と新しい家庭を持った今でもさんまに浮気離婚をいじられ、いわゆる「明石家定食」にされてしまっている。

こういう、さんまや松本のような人間は集団の中で非常に貴重な存在である。彼らは常に全体を俯瞰で見ている。全体を見ているから、1人の扱い方が分かるわけだ。こういう芸当ができる人は他の場面でも大きな能力を発揮できることが多い。

 

面倒くさくなりました。今日はこの辺で。

 

 

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