随分前にツイキャスで語った、「頭の良い人、悪い人、幸せなのはどっち?」というお話をします。
さて、これを読んでいるあなたはどっちだと思うでしょうか。
そんなもん、頭良い方に決まってるだろ!
と、多くの人が答えるかもしれません。
では先に結論を言っておきましょう。正解は……
どちらも不幸
です。
平均でいることの幸福
図はこちらのサイトより拝借、加工。
この図を見てください。IQの分布図です。綺麗に左右対称の山を描く、いわゆるひとつの正規分布です。
さて、平均が100であり、その100を跨いだ90~110の幅20(青斜線)に注目してください。その数字は23.4%ずつで合わせて46.8%です。この図は最低が50、最高は150までの100の幅でベルカーブを描いていますが、ど真ん中を挟むたった20の幅の中に、人類の約半数が入ってしまうのですよ。
よく「IQが20違うと会話が成立しなくなる」と言われますが、ど真ん中のIQ100の人の場合、「会話が成立する」幅は80~120までとなるので、その比率は78.8%になります。つまり、IQ100の人にとっては全ての人間のうち、5人中4人とは会話ができるということになります。
これが知的障害の範疇に入るIQ60であれば、あるいは天才扱いされる140であれば、その幅はほぼ10%。世の中の10人に1人としか会話ができなくなるんです。
もっとも、この「会話が成立しない」というのは一種の比喩であって、IQ上側の人が下側の人に合わせることによって、とりあえず会話を成立させることはできるんですけどね。それでも、IQ140の人がIQ100の人と喋ることによって、望んだ返答は期待できないのです。
マジョリティーがマイノリティーの幸福を定義する?
ここでは手っ取り早い数字としてIQを取り上げましたが、皆さんご存知のように人の頭の品質はそれほど単純に測れるものではありません。が、質的にしろ量的にしろ、頭脳の品質が異なると、まともに会話も成立しなくなるというのは事実です。
さらに、「感性」という数値化しがたい性質の差まで含めると、マイノリティーには生活する上で様々な不自由があります。
IQ分布が直線的ではなくベルカーブを描き、IQ80~120の40の幅の中に人類の8割が収まってしまうということは、世の中がIQ100前後の人たちに合わせて設計されているということを意味します。なんせ世の中は資本主義と民主主義で営まれていますから、この分厚い層の需要がないものは供給されませんし、この分厚い層に支持されない政治家は当選もしないのです。映画、ドラマ、アニメ、ゲームと言った文化だって、まずはこの中央層が喜ぶものでないとそもそも創られないのです。
それを考えると、頭が良すぎるにしても悪すぎるにしても、あるいは感性が独特過ぎるにしても、マイノリティーというのは物凄く不幸なのですよ。
何より、自分と話の合う人が極度に限られるのですから。
ここからさらに発展させて考えると、障害者という社会的マイノリティーだって同様の問題を孕んでいるわけでしてね。我々平均的な人間は特に不自由なく設計された社会の中で、たまに障害者を見かけた時だけ、たまに障害者の話題に触れた時だけそれっぽい顔で考えていれば、とりあえず「倫理的」でいられるのですが、その生活がどれほど大変かは自分が障害者になってみないと分かりません。体験したこともないマイノリティーの気持ちなどそう簡単に分かるはずもないのです。それを軽々に「障害者だからといって不幸ではない」という耳に据わりの良いフレーズで丸く収めてしまという考え方のいかに軽薄なことか。
ほとんどの人は想像力が足りない
私ってこう見えて実は異常なほど共感性の高い人間でして、例えば大雨の中外から野良猫の鳴き声が聴こえてしまうとその後ずーっと気になってるんですよ。USJやらのテーマパークに行ってストレッチャーで移動しているほとんど体の動かない身体障害者とすれ違っちゃうと、帰るまで忘れないんですよね。「あの子はまだここにいるんだろうか。どれほど楽しめたんだろうか」と。
私の場合は意識的ではなく無意識のうちに想像・共感してしまうのですが、では特に不自由のない一般的なフツーの人たちはどれほどマイノリティーの立場になって考えているでしょうか。……と考えると、ほとんどの人は想像力不足だと私は思っています。
その前提に立つと、健常者が障害者の幸福を決めてしまうことの傲慢さや恐ろしさがよく分かるというもの。
このブログの読者のうちどれほどの人が姉妹ブログの『犬小屋』の方を読まれているか知りませんが、あの犬のしつけブログだって、その根っこには「飼い主が幸せだと言ったら犬は当然幸せだ」という傲慢さに対する糾弾があるのです。いや、犬にええ服着せて高いモン食わせてそれをインスタに上げて「ほら、幸せそうでしょ♪」って、お前ら来世は是非犬に生まれ変わって幸せになってみてくれよ、と。
平均的な人間はみんなクズだ
てなことをいろいろ考えていると、マイノリティーの周りにはいろいろとクズがいるなぁと。
●マイノリティーであることで食っていこうとするクズ
●マイノリティーに寄り添うフリをして飯のタネにするクズ
●マイノリティーのことを分かっているフリをするクズ
●そもそもマイノリティーのことなど気にもかけないクズ
上の2つは関係ないにしても、下の2つについては私も常に自戒の念を持っています。いや、自戒の念という表現は相応しくないかもしれません。私は考える時は無意識のうちに勝手に考えてしまいますし、それ以外のところでは特に意識もせずただの「平均人間」でいるわけで、しかもそれを悪いとは思っていないので。ただ、カテゴライズするなら、私もマイノリティーのことは何も分かってないという意味において、やはりクズなのです。ただ、何か違うとすれば、私は「分かったフリはしない」という点でしょう。
まとめ
特に趣旨を決めずに書き始めたら話が変な方向に行ってるようです。
本当は最近読んだ『バカと無知』の内容から昔のツイキャスを思い出して、純粋に人間の社会的本能について書こうかと思っていたのですが、それは後日ツイキャスかブログで語ることにします。
とりあえず無理やりまとめるとするなら、我々が障害者であったりLGBTであったり、あるいはその他何かしらの要素で平均的な人と違った立場にいるマイノリティーを語る際、想像力をフル回転させてもその人の気持ちにはなれないということです。だからこそ考え続けなければならないのです。特に政治の議論においては。
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