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肉体の死より怖い、心の死。

悩む女性 哲学・心理学

ブログのように「言語として形のあるものにしたためる」という作業は結構しんどくて、心身ともに調子が思わしくなかったしばらくの間は、安易にスペースで呼ばれるままに議論に参加したり、まとまらないままツイキャスしてたりしました。

私がツイキャスするネタは多くの場合過去にブログで書いたものの音声版+多少のアップデートという形なのですが、ここ最近は文章を書くのがしんどいからとりあえず音声でってな感じでした。

ということで、ブログネタは今腐るほどたまっております。

 

今更時事性を気にしてもしょうがないので、私の関心度という意味での重要性を優先して書いていきます。ということで、今回は「主として人間関係のトラブルから生じる精神的な落ち込み」について。

ちょうどオンラインでもオフラインでも同時多発的に似たようなお悩みが生じたので、これに触れます。と言っても、具体的なお悩みを取り上げるわけではなく、その最大公約数的な一般論的回答を。

ところで、以前『バカと無知』という名著をちらっとだけ紹介し、いずれその感想を書こうと思っていたのですが、まさに今回のような話に相応しい内容なので、ここでいくつか引用させて頂きます。以下、引用符の内容は、橘玲著『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』(新潮新書)からの引用です。もちろん、引用は本編のごく一部でしかないため、皆さんには是非通してご一読して頂きたい一冊です。

 

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人はプラス評価よりマイナス評価の方に敏感

現代のような「とてつもなくゆたかな社会」では、一人で生きていくのにさほどの困難はないから、集団からの排除が生存の危機に直結することはない。ここでも問題は、それにもかかわらず、ちょっとした人間関係のトラブルでとんでもない音量で警報器が鳴り響くことだ。

これ、かねてより私の主張していることです。

人間は誰でも他人から褒められると嬉しいものですが、残念ながら誰かから貶された時に生じるマイナスの感情は、褒められた時に生じるポジティブな感情をはるかに凌駕します。しかしながら、これは小さなコミュニティーで培われた人間の社会的本能が生み出す錯覚でしかありません。誰かからのマイナス評価を気にするのは、小さな集団で生き残るための生存戦略的本能であり、現代の社会のあり方やコミュニケーション形態からすると、極めて非合理的なのですよ。

なので私は、「誰かからブロックされたと騒ぐのはバカ」と言い続けてきました。あなたは、あなたをフォローしてくれている500人の方を向いていれば良いのであって、その500人よりブロックしてきた1人を優先するのはおかしい、と。

誰かから批判された、罵倒された、嫌われた。その時に生じるマイナスの感情は、太古より受け継がれた古い本能が見せる幻覚であることを自覚してください。気のせいなのですよ。

少しだけ首の角度を変えれば、その何倍ものあなたの理解者がいるのに。

 

聴こえてくる声はバカの声

愚か者が自分の能力を (大幅に)過大評価し、賢い者が自分の能力を過小評価するからで、その結果、集団での決定はバカに引きずられてしまう。

これは、バカと賢者の自己評価ギャップについて語られているところです。バカほど自信過剰で無謬性に陥りやすく、賢者ほど謙虚で自己主張を控える。結果目立つのはバカの主張だし、精神的に弱い人はたとえその主張の内容がバカであっても、あまりに自信満々で言われると「そうなのかな」と思い込んでしまいがちです。

あなたの目や耳に入ってくる情報は、知性としては平均よりはるかに下回るものであり、採り入れる際には慎重にならなくてはいけません。

 

知的怠惰が人間関係の失望を生み出す

「相手のことをとりあえず信用する」のがデフォルトになっているのは、ヒトの本性が性善説だからではなく、脳の認知能力に限界があるからだ。

脳の認知能力をフル活用するのは結構しんどいもので、たいていの人はあまり深く考えずに誰かのことを信用するのですよ。まあ何でも良いんですが、コオロギ食にしろ回転ずしの湯飲みペロペロにしろコロナにしろ、多くの人は「分かりやすい主張」および「それを声高に主張している人」に己の考えを【委任】してしまっているのです。

こんな短い文章でも話しが逸れそうになりました……「認知能力に限界があって、面倒だから人を信用してしまう」ことがもたらすものは、いざ予想と違うことが起きた場合にパニックを起こしてしまうということです。認知能力不足ということは、想像力も不足しますし、覚悟もできません。

ではどうすれば良いか?実に簡単です。

「人間関係で相手が自分の望むような行いをしなかったとしても『裏切られた』とは思わない」

これを自分の「心の憲法」に書き加えておくだけです。

 

肉体の死より怖い「心の死」

  仲間外れにされたり、他者から批判されることと、殴られたり蹴られたりすることを、脳はうまく区別できないらしい。

学校でいじめを受けた、会社でパワハラを受けた。この後、いとも簡単に人間は「自殺」という最悪の選択肢を選んでしまうことがあります。正確に言うと、自殺以外に選択肢がないと思い込んでしまうのです。

第三者から見ると簡単なんですよ。「なんで自殺しちゃうの?命あっての物種でしょ?逃げればいいじゃない」と。

ところが社会的動物たる人間にとっては、「心が殺される」ことこそが本当の死であって、心の入れ物にしか過ぎない肉体の存在は意味を失くしてしまうのです。

しかし、さらに言えば、「肉体の死」は不可逆的であるのに対し、「心の死」は実は結構簡単に蘇生が可能です。なので健全で人を助ける余裕のある第三者が弱っている人にかける声は「死ぬのはいつでもできるが死んだら元には戻れない。とりあえず2週間先延ばしにしよう」ということだと思います。

この「2週間」と言うのはテキトーと言えばテキトーなんですが、人間の生活サイクルが普通1週間で形成されていて、それを2回繰り返しても心に何の変化もなければしょうがないんじゃないの?と。

でも実際は、何の変化もなくその時の感情を2週間の間維持する方がはるかに難しいのです。そして多くの人にもたらされる変化は、たとえ少しずつであっても「回復」なんですよ。

 

時間を味方につけよう

なのでこれを読んでいるあなたも、もし深刻なレベルで心が落ち込んだ時は、「時間は味方」を念仏として唱えてください。

山で遭難して夜を迎えてしまったら、人は真っ暗の中パニックを起こして動き回るかもしれません。すると、気づかずに同じところをグルグル回っていたずらに体力を消耗し、飢え、暖も取れず、絶望することになるでしょう。ヘタしたら崖から落ちてしまいます。だったらまず近くで最も安全な場所を見つけたらそこで動かず陽が昇るのを待つのが得策です。少なくとも体力を消耗しなくて済むし、ぼんやりながらも進むべき方角が分かりますから。

晴耕雨読。心に雨が降っているなら大人しく本を読みながら雨がやむのを待ちましょう。この「本を読む」のは比喩ではなく、リアルです。どうせ心がざわついてじっとしていても嫌なことしか考えないなら、本、漫画、映画、何でも良いので無理やりにでも頭に入れてみるのが良いと思います。雨がやんだら運動をする。運動は脳に回り過ぎている酸素流入を抑えてトランス状態を作り出します。考えるにあたって邪魔をしてくるあれやこれやのノイズを排除することができます。

 

まだまだ続きはあるんですが、一旦ここで失礼します。

 

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