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論理国語と文学国語

育児・教育
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巷の言論空間を支配しているのは感情とポエム

「国語」を「論理国語」と「文学国語」に分けた場合、ざっくりその性質を考えてみると、論理国語における言葉は思考のツール、文学国語における言葉は装飾のツールと言って良い。

我々が議論を行う場合に必要なのは、思考ツールとしての言葉、つまり論理国語の方である。しかし厳密に論理国語を意識して議論する論者は少数派で、多くの人は区別していない。

人によっては恣意的に論理と文学をスイッチしながら議論に臨む。相手論者には厳密な根拠を求めるが、立場が逆になると「そんな細かいことはどうでもいい」と言って跳ねのけたり、ポエムを語り出したりする。当然ながらまともな議論になるわけがない。

論理と文学のすり替えは、簡単に言えば「正しいか間違っているか」の話を「好きか嫌いか」に替えてしまうこと。ここにしっかり線を引いて論ずるのが橋下徹だ。

「3×5=15」は論理的な話で客観性があり、正しいか間違っているかの判断ができる。結果として表れた15という数字が好きか嫌いかは個々の価値観の問題なので、多数決で決めるべき。これが橋下徹の論法なのだが、この実に当たり前の思考手順を多くの人は理解できないでいる。

世の中は、政治制度関係なしに民主的である。多くの味方がついた陣営が正しい。数は力であり、力は勝利をもたらし、歴史はその勝者が作る。正しいかどうかではなく、【多くの人が共感したかどうか】こそが評価基準になる。

私がマイノリティー研究所を設立した意図には、社会はマジョリティーによって作られており、マイノリティーのことを親身になって考える人が少ないからだ。「正しい身体障害者の接遇」の手法も結局は健康なマジョリティーが作り出す。

私が言葉にこだわるのは、自分が気に食わないからと言っていかにも論理的にこちらが正しいというな演出をして勝利をアピールするようなクズにはなりたくないし、巷間で交わされる議論が少しでも建設的であってほしいからだ。

論理とは何かが分かっていない者は、議論の脈絡で躊躇なく無用の人格攻撃やレッテル貼りをする。しかし、当人達はそれを自覚していない。むしろ自分達は公明正大で冷静で論理的で多様性を認める理想的な文化人だと思っているだろう。

気が合う仲間とはいつも一緒にいたいのは当然だ。しかし副作用として、言葉を使わずとも【鳴き声】で会話ができてしまうためリテラシーが低下していく上に負の感情が生じた時にそれを抑制できないということがある。

同じ価値観でそれを共感し合っている限り、誤謬も問題も認識できない。ムラの中の会話に合わせないヤツを、己の非論理性を棚に上げて「あいつは論理的ではない」という化粧を施して村八分にする。

最近『12人の優しい日本人』という映画を観た。三谷幸喜原作の、裁判員制度が始まるはるか昔に作られた「もし日本に陪審員制度があったら」というifの物語だ。

この映画は「論理的に考えるとはどういうことか」「個々の言葉が他人の人生を左右する恐ろしさ」を笑いで教えてくれる。多くの人に是非観て頂きたい。そして自分が登場人物の誰に相当するか考えてみて頂きたい。

 

以上、ツイッターの連投用に140文字以内/段落に収めた文章なんですが、こういうのはしょっちゅうツイッターでも書いてるし、なんかこういう上から目線の説教臭いツイートなんてどうせ誰も読んでくれないだろうと思って、結局投稿しなかったんです。が、もったいなくてここにコピペした次第です。

 

「論理国語」と「文学国語」

さてさて。

今、高校の「現代国語」が「論理国語」と「文学国語」に分かれているのだそうで。と言ってもこの議論自体はかなり前から交わされていて、実施されたのが2020年からでしたっけね。

私はこの分類自体は大賛成なんですよ。

かつてこんな記事を書きました。頭の良さそうな人ですら、簡単な読解力問題が解けない。中学生の約9割が理解できない。この事実に愕然としたのです。

しかしまあ、ツイッターなりスペースなりで議論していると、さもありなんと実感していることも事実でして、私からするととにかく皆さん論理的に考えるという行為をあまりに軽視しているように見えるんですよ。

「議論になってない議論」って例を作るのが難しいのですが、例えば(あくまで創作の例です)「レモンとイチゴ、ビタミンCをより多く摂取できるのはどちらか」という論題があるとしますわな。すると、私の感覚で言えば、まずそれぞれの単位質量あたりのビタミンC含有量をググる訳ですよ。これ、1分かかりません。その後に「食べやすさ」や「価格」や「農薬の影響」などといった要素を勘案した結果、一応の結論が出る、と。ところが、その中でいきなり「わたし、イチゴ嫌いなんですよねー」と言い出す人が出てくる。そこで「いや、今個人の好き嫌いの話は一旦置いといてください」と相手論者が修正してくれれば良いんですが、「どういうところが嫌いなんですか?」と脇道に話を発展させてしまったりするわけです。「この話、いつ本題に戻るんだろう……?」と考えながら見守っていると、戻るどころか「好きな食べ物」の話に行っちゃって、二度と戻ってこれなくなるとかね。

いやいやいやいや、なぜ皆はこのような「議論」に耐えられるんだろうかと不思議でならんのですよ。

 

言葉は思考のツールだ

これまた過去に何度か書いておりますが、そもそも「言葉」とは、個人の立場、表情、感情、誰かとの関係に依存せず、それを使いこなせる人なら広く、どんな人とでも通信・交流ができる情報ツールであり、記録の手段です。……だけでなく、言葉は思考のツールでもあります。

つまりですな、本当に、つまらない、退屈なことを、改めて申し上げますが、

言葉を正確に使えない人は頭が悪い

っちゅーことなんですよ。

さらにこだわって注釈を入れるなら、「言葉を正確に使う」ことと「言葉を大事にする」こともニュアンスとしては少し違います。「言葉を正確に使う」ということは「言葉を大事にする」ということですが、「言葉を大事にする」ということは必ずしも「言葉を正確に使う」ということではありません。これが言わば論理国語と文学国語の違いと言えるでしょう。ここでは論理国語に着目しているので、「言葉を正確に使う」ことの重要性を説いています。

 

言葉を操れない人ほど怒る

議論をすると人はなぜイライラするのでしょうか。

その原因はかなりの割合で「正確に言葉が操れない」ことにあります。論理国語能力がなければ、賢い人が何を言っているのか分かりません。そして、自分の言いたいことも言語化できません。相手が間違っていてもそれを論理的に指摘することができません。自分の論理国語能力の欠如が原因でイライラしていも、人間は弱いので、それを相手のせいにして怒ってしまうことがよくあります。つまり、論理国語能力はその人の(表層的な)人格にも関わってくるわけです。最低限の論理国語能力があれば、「言いたいことの言語化」ができなかったとしても「言いたいことが言語化できない自分」を客観視して、心を落ち着かせることはできるのですよ。

 

論理国語と文学国語、優先すべきは?

ちょっと話が発散してきたので本流に戻します。

「現代国語には“論理国語”と“文学国語”の2種類がある」と言っても、これらは並列に置くべきものではなく、直列の関係であるべきでしょう。すなわち、「論理国語があっての文学国語」でなければいけないはずです。

例えばですね、美術で言えば、ド素人から見るとピカソの絵って誰でも描けそうな気がしてしまうんですね。ところがピカソの、あの一見落書きにも見えてしまう抽象画は、基礎的な美術の素養が十分にあって描けるものです。クセの強い絵を描く漫画家だって、本来は十分なデッサン力を持っていて、似顔絵なんか描かせるとやっぱりめちゃくちゃ上手かったりします。元々基本ができている人が応用しているわけですよ。18代中村勘三郎も言ってましたよね。「型ってものがあってまずはそれをやる。型が分かっているから“かたやぶり”ができるんであって、そうでないものは“かたなし”だ」と。

国語においてその「型」であり「基本」は言うまでもなく論理国語の方です。詩歌など論理国語が分からずとも多少は楽しめる文学もあろうけれども、文芸作家のほとんどは高度な論理国語能力も持っているものです。三島由紀夫のエッセイなんて大学の教科書みたいな感じですし、詩歌を主とする俵万智だってエッセイは(すごく読みやすいが)論理的です。

 

では学校ではどう教えるべき?

小中学校では、教材に関しては概ね今のままで良いのではないかと思います。ただし、既存の国語はそれとは意識させず「論理国語」と「文学国語」を混ぜながら教えているので、その区別をつけます。「今やっているのは論理だよ」「これは文学だよ」と言うように。

冒頭で橋下徹の論法を紹介したのは、大人でも論理的な表現と非論理的な表現の違いが分からずに、(あるいは相手を混乱させるために敢えて)語ったり議論したりする人が非常に多いのです。まずは区別から始めることこそが肝要でしょう。

その上で、少しだけ論理に特化した授業を実施する。先述のワイドナショーで取り上げられた読解力問題なんかを扱うのも良いですね。論理学記号を使った論理学の初歩をやっても良いし。

さらに、小学校5~6年のうちから議論をさせる。とにかく日本人は口頭による出力が下手です。だから英語もできない議論もできない。出力ができないと理解も深まらないし、生きていく上で生じる無数の問題に本質から解決する力もつきません。

 

大人もがんばれ

私が目にした一部のインテリ(教育職)は、学校の現代国語を「論理」と「文学」に分ける試みを快く思っていない人もいるようです。その理由はどうも明確になりませんでしたが、要するに「野暮」という感じのようでした。

そりゃね、あなた方のように元々頭の良い人種にとってこのような分類は野暮なのかもしれませんが、平均的な人たちはそうではないのですよ。何より、あなたのような人はフツーの人々のツイートを見てはその非論理性を揶揄しているではありませんか。

ということで、すでに学校を卒業してしまったフツーの人たちの皆さん、「論理的に考える」ということは難しいことではなく、誰もが簡単に訓練できます。日々の訓練でネット言論空間の質を向上させようではありませんか。

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