100歳の方がコロナで亡くなったという報道を耳にすると、「めっちゃ長生きやん…」って思ってしまう。「コロナ怖い」とは思わない。平均寿命も伸び続けてる。
— はむちゃん(非常事態🔴) (@hamu_cha_n_) February 9, 2022
「ヤクザだから好きになったんじゃない。好きな人がヤクザだっただけ」
コロナ禍はこういう因果の入れ替えトリックで演出されている。 https://t.co/h9DnBfOWNk— 小ライス (@shorice_hitotsu) February 9, 2022
100歳は長生きですけど、コロナなければ普通に亡くなったんかな…とか、どうしてもそこは想像しますね。
長生きしたことは事実ですが、長生きしたんだから充分でしょうってのはまたなんか他人が言うことでもないような…。病気って嫌ですねー。— おチャコさん (@ochako2boysmama) February 9, 2022
「普通の死」って何だろう
まず私のツイートの意図=因果逆転のトリックとは、言うまでもなく「コロナで死んだのか、死んだ時に陽性だっただけなのかの区別がされていない」こと。これを政府やマスコミは利用して、コロナ禍を煽り倒してきた。
仮に100歳の老人が本当にコロナで死んだとしても、私は「コロナさえなければ」とは思わない。人間はいずれ必ず死ぬ。ある程度の年齢になったら「きっかけ待ち」の状態になる。餅を詰まらせて死んだとして「餅さえ食わなければ」と考えは私は餅…いや、持ち合わせない。
例えば志村けんは、コロナに罹っていなければ明らかに寿命は延びていたはずだが、そこで「コロナさえ」と言うのであれば、その前に「酒さえ飲んでいなければ」肝硬変にもなっていなかったし、コロナに罹ったところで死ぬことはなかった可能性は高い。
コロナで死ななかったとしてもガンで、ガンにならなかったとしても脳出血で、と医師によって「犯人探し」は延々と続き、「老衰」で死ねる日本人は10人に1人だ。残りの90%は皆「悔やまれる死に方」だったのだろうか。
「コロナでなければ普通に死んでいたかも」なら「コロナは異常な死」なのだろうか。だったら「正常な死」はどのように定義されるのだろう。
主体は「社会」のはず
そもそもはむちゃんさんの元ツイートの意図は、「社会」を主体にした社会現象としてのコロナ“禍”について語られたものであり、過剰な恐怖演出を揶揄したものだろう。100歳の死は、そのサンプルに過ぎない。
「100歳の人が死んだからといって、コロナが怖いとはならない」そう言っているだけなのだが、そこからなぜ「長生きしたから良いじゃないか」という、個人の話の話しにすり替わってしまうのか。
社会の話から突如、個別案件として100歳の老人に共感してしまうのが、情報に感情が操作される人間の弱さだ。「他人がとやかく言うことではない」のなら、死亡数報告だってしなくて良い。報告された死なら、【社会として】その死にどんな意味があるのかを考えるのは、私から見れば正常な行為だ。
「社会」を語る脈絡で、その主体を恣意的に「個人」に移し、突然センチメンタリズムが介入する。これが人間の心理であり、マスコミにさんざん利用されてきた。さて、年間130万人以上の日本人が死んでいるが、100歳の老人に共感した人は、130万回共感しているのだろうか。
年寄りではなく子供たちにこそ共感すべき
「コロナさえなければ」100歳の老人はあと数か月長生きしたかもしれない。一方で、利権集団とマスコミが作り上げた「コロナ“禍”さえなければ」2020年の、140人の中高生自殺者はまだ80年生きられたかもしれないのだ。
これが以前にブログで書いた「コロナ禍で失われた1万年の命」だ。そもそもコロナで死んだかどうかも分からない、コロナで死んだとしても何か月分の寿命損失でしかない老人の死にそれだけ共感していたら、子供の自殺に共感して発狂死してしまうのではないか?
でもなかなかそんなツイートはお目にかからない。なぜか?地上波ではほとんど報道されないからである。なんだかんだで、我々は「共感しやすいものにしか共感できない」のだ。だから必死で想像力を働かせる必要がある。
「コロナは数字で語れ」というのは冷酷なことではない。想像力の補助となり、共感するのはそこだけではないだろということを教えてくれる。
維新だって数字を使って酷い目に遭ったはずなんだが…
さて、私のツイートやブログは大体感情を含ませないのだが、ことコロナ禍に関してだけは常に怒りの感情がベースにある。「新型コロナ感染症」は病気の話だが「コロナ禍」は政治の話だ。他の集団ならいざ知らず、政治クラスタにいるはずの維新支持者ですらとにかく意識が低い。
維新支持者と言えば、マスコミに痛い目に遭わされた過去がある。その象徴が「218億円事件」だ。利権側の人間によって世論誘導された毎日新聞の捏造記事である。しかし「218億円」は嘘ではない。正確に言えば「捏造」ではなく、読み手をミスリードさせているだけのこと。
維新支持者はこのことに怒り狂ったが、コロナになるとどうか?「コロナ死亡者」というデタラメ統計、「コロナリスクとワクチンリスクの扱いの非対称性」その他諸々を科学的に解析し、突っ込んだアカウントがどれほどあったか。
「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」自分の関心事には数字にもうるさくなるが、そうでないテーマについてはまんまと騙される側になる。愚かだ。
善良なフリをして子供を死に追いやる悪魔
「コロナに関して、世の中の半分は日和見である」と以前に書いた。普通の一般人ならそれで良い。だが、政治クラスタにいる以上、日和見ではダメだ。なぜなら、このコロナパンデミックをどう処理するかが、子供達の将来を大きく左右するからだ。政治とはとどのつまり、子供の将来を考えることである。
日和見ならまだ良いが、利権側の人間が発信するコロナ禍推進情報を何のフィルターにもかけずにひたすらRTする人達がいる。そのうちの一部は、RTするだけで自分の口では発信せず、議論もしない。卑怯この上ない。これが最もタチが悪いし、心から軽蔑する。
そういう人達は、無暗なコロナ禍推進で子供や女性の自殺を幇助しているという自覚がないのか?やっていることのベクトルとしては、罪のない人間の無差別大量殺人と同じだぞ?RTする度に射精でもしてるのか?気持ち良い?
どこまで行っても数字と論理が軽視されるコロナ禍
コロナに関する情報を流したいなら、その根拠となる情報もセットで発信すべきだ。「インフルよりはるかに死亡者少ないですよね?」「ワクチン死亡者ってどうやってカウントしてるんですか?」この肝心な疑問は一切無視。根拠のない結論をただ発信するだけの行為は【信仰】である。
ついでに言うと、今は「コロナ怖くない派」「反ワクチン派」であっても、私が当初「コロナはインフル以下だ」と言った時に「コロナでどんな死に方をしてるか知らないからだ」と言った人のことは、その人間性は信用しても理性は信用していない。情報はありがたく頂く。
私は2年間主張を一貫させているが、あっちの極端からこっちの極端に移った人は、またすぐどうなるか分からない。その人が好きとか嫌いとかは全く別の話で、【理性は】信用できない。
とどのつまり、疫学というマクロ視点で考えなければいけないコロナに、「死に方」とか「お気持ち」みたいなミクロの話を持ち込むのは、物凄く邪魔なノイズにしかならないのだ。それを言いたいのなら、誰かに絡む形ではなく、単独ツイートやブログで書けば良い。
我々はいったい、コロナの何を語っているのか
ということでアドバイス。今語られていることの主語は何か?「社会」なのか「私」なのか「彼」なのか、「新型コロナ感染症パンデミック」なのか「コロナ禍」なのか。
ごっちゃにするから何を語っているか分からなくなるんです。
何より!
コロナについて何か言及するのであれば、厚労省にまともな疫学調査をし、統計を公表させる圧力を少しでも作っていくことでしょう。
飛行機でマスク拒否し呉市議を「バカ」と罵って何か世のためになるとでも思ってるんですか?コロナが「ただの風邪」なのか「怖い風邪」なのか、その判断材料を出していない為政者こそ攻撃対象ではないですか?あなた方バカですか?
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