「挨拶」「敬語」のお話と、日本人は論理的思考が苦手というお話。

言論 文化
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なぜ挨拶があり、敬語があり、敬称があるのか。それは人間のコミュニケーションを円滑にするためだ。挨拶をし、敬語を使うというのは、コンピュータ通信で言うところの「プロトコル(通信ルール)を合わせる」行為に他ならない。

つまり、「私には対話に足るそれなりの常識と日本語能力が備わっています」という宣言である。フワちゃんをはじめ所謂「タメ口キャラ」と呼ばれるタレントがいるが、それはそれで例外として市民権を得る必要がある。ただし、その場合においても「この子はそういう子」というレッテルは避けられない。

ツイッターやスペース等で、初対面でタメ口を聞く人がいるが、それはつまり「他人とプロトコルを合わせるつもりはない」という宣言に等しい。その上で議論が噛み合わないあるいはやけに攻撃的だったりする場合は、即座に議論をやめて退出するのが吉。

もっとも、タメ口が即ダメという訳でもない。他に対話しようとする意志さえ相手に伝わりさえすれば良い。

昨日はたまたま、ジェンダー論の皮をかぶせてタメ口で女性相手にミソジニーをぶつけて、他の論者にもマウンティングしまくる馬鹿を見たので書いてみた。ホストとなって遊ぶ全知全能ごっこはさぞ楽しかったろう。

 

YouTubeで見たある講師の動画によると、日本人ほど「論理」を嫌う民族もなかなかないらしい。私の実感としても日本人は論理的思考が苦手である。

これはなぜかと言うと、あくまで私見だが、
(1)日本人は単一民族かつ単一言語の国だから
(2)遺伝的にも文化的にも協調性を重んじる精神構造を持っているから
だと思う。

(1)他人との違いは「身分」までで、異民族との交流が極端に少なかった。言葉は通じて当たり前だし、当然ベースとなる価値観も似たようなもの。そういう前提においては、「情報を正確に伝える」ことを重視しようとはしない。それよりも、自分と相手の社会的立場を言葉のニュアンスに込める。

(2)人類発祥の地・アフリカを中心とすれば日本は果ての果てであり、ここまで生き残った日本人は基本的に「喧嘩が苦手で、協調性が高い」と思われる。意見をぶつけ合うよりも「和をもって尊しと為す」。結果、論理性より上っ面であっても社会性を重視する。

何か激論を交わしているように見えても、よくよく見てみると論理性に乏しく、ぎゅっと圧縮すれば「だって当たり前だろ。お前もそう思うよな!?」の連続であったりする。これはその典型例。

日本語で一人称を挙げると、
わたくし、わたし、あたし、俺、僕、あたい、あちき、わし、わい、小生、それがし、身共、朕、余、われ、手前、拙僧、本官、麻呂……
等々きりがない。さらに日本語には高度な敬語もある。

このように日本語は異常なほどの表現力を持つのだが、その表現力の多様さは、特に「立場」や「関係性」を表すことにおいて顕著である。


 

以上は何となく書き始めた連ツイなんですが、補足入れておきます。

ツイッターやってりゃいろんな議論にも参加しますし、最近だとスペースなんかで生の声の議論に参加するわけですよ。

別に私が頭が良いってことを言いたい訳ではありませんが、たいていの議論はとっ散らかるんです。そしてそれを片付けられる人ってのがなかなかいません。

例えば「民主主義」というものについて議論をすると、話は大概平行線になります。その平行線を生んでいる原因がなかなか分からないんです。ちなみにその答えは「理念」と「運用」の違いだったりするんですけどね。このキーワードを抑えておけば、各論者の主張の違いが明確になるわけです。

あるいは昨日遭遇したジェンダーについてのスペースは、「議論」という体で女性を虐めるだけの酷い空間だったのですが、虐められている方もアップアップになっちゃってなかなか論理的に反論できません。

そこでおこがましくも私が割って入って「法律や公的制度と、個々人の公共心・道徳心の話がごっちゃになってますね」と注釈を入れたわけです。

溢れる情報の中から要点と構図を抽出する作業のことを「抽象化」と言いますが、私はこの抽象化が得意……と言うより、細かい大量の情報を扱える脳を持ち合わせてないので、逆に抽象化しかできないし、抽象化できないと何も頭に入ってこないんですよね。コンピュータで言えば、メインRAMがめちゃくちゃ小さいのです。

おっと、話が逸れそうになりましたが、要するに、大きなことしか分からない私にとって、「議論が議論として成立しているかどうか」の判断はかなり容易だし、その理由がどこにあるかも割とすぐ分かっちゃうというお話です。

途中にリンクを挙げたウィル・スミスの話とウクライナ論のことを書いたブログは、まさにその典型例で、「皆が論理的に主張していると思い込んでいるが、実は全く論理的でない」ということです。いっぱい言葉を吐いて共感する人が多いと、「議論した」気になっちゃうというトラップなんですよ。

共感する人が多いと論者は気持ち良くなっちゃって、一体何を喋ってるのかも実はよく分かってなかったりするもの。論点を見誤らないようにするためには、「要所要所で見出しを付ける」という作業を頭の中でやると良いと思います。「これってつまり、何を議論しているのか」「これは何と何の対立なのか」という抽象化作業です。

「議論は平行線ですね」と誰かが言う場合、たいていはその抽象化が出来ていなくて、議論が全く進まない状況の諦めを、無理やりこのフレーズでまとめているだけなんです。ちゃんとした抽象化さえ出来ていれば「平行線ですね」ではなく、「ここで価値観の違いが明確になりましたね」となるはずなんです。

 

すみません、話の途中ですが、犬が散歩に連れて行けとうるさいのでこの辺にします。

 

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