よくある日本語の誤用問題のひとつに「的を得る」or「的を射る」があります。
社会全体としては後者で概ねコンセンサスが取れているようですが、私はここで「『的を得る』は決して間違ってない。むしろこっちの方が正しい」と主張します。
「正鵠を得る」
弓道においては、的のど真ん中に命中させることを「正鵠を得る」と言います。「鵠」とは白鳥のことで獲物ということですね。そこに「正」が付けられて、ど真ん中というニュアンスを強めたものと解釈できます。
つまり、弓道の的は、当然ながら何かしら具体的な撃墜対象物を想定しているのであり、例えば白鳥であるということです。人でも獣でも鳥でもないただの的ですが、矢で狙う時、それは鳥なのです。そしてそれを射貫くことは「獲物を得る」ということ。
さて、「的」=「獲物」という等式はおかしいでしょうか。おかしくないのであれば、「的を得る」(標的としていた対象物をゲットする)もおかしくありませんね。
「射る」という言葉のややこしさ
そもそも字源的には「射る」は「矢を放つ」ことであって、「命中させる」は二次的な意味になります。例えば「俺は矢を射られた」と言えば、その矢は「俺」に中(あた)ったのでしょうか。「敵が俺に向かって矢を撃ってきた」だけかもしれないし「敵の矢が俺に刺さった」のかもしれませんね。
英語だと、
shoot it (それに命中させる)
shoot at it (それに向かって撃つ)
で区別するところです。
さて、日本語で目標物に飛び道具を中てることを二字熟語で何と言うでしょうか。
「命中」
「撃墜」
「的中」
他にありませんか?
肝心の「射」はどこに?……って言うとこれってのがないのでは?
つまり、「射」はどこまでも「射手」側の話であって、「的」のことはあまり考えてないんですよね。「射撃」だって目標に中たったかどうかは関係がありません。「射精」の場に相手がいるかどうかも関係ありません。
「矢を射て敵兵を射る」?
というような「射る」なわけですが、この表現に何となく「命中させる」というニュアンスも含めて、日本人は古来この言葉を使ってきたわけですよね。
で、何が起こるかと言うと、
「矢を射て敵兵を射る」
「パトリオットを射てスカッドを射る」
みたいな表現まで間違いとは言い切れなくなってしまうわけです。気持ち悪いでしょ?
そこを意識してか、
「的を射貫く」
という表現を使う人も結構いるのですが、これはこれでモヤモヤするのは、貫通したのか?ってとこです。
え?考えすぎ?
でもね、趣旨としては鳥を撃ち落として【獲得する】ってところにあるわけで、物理的にどういう経緯を経たのかって割とどうでも良いことでしょう。パチンコ式の弾丸かもしれないし。
そりゃ「的に射る」ではなくて「的を射る」と言ってるんだから、射手側だけの話ではないことは分かりますが、だからと言ってそこまで「射る」に拘る必要あるのか?と。「ら抜き警察」と同じで、ただ指摘したいだけではないの?と。
昔から使われている「正鵠を得る」だと自然に意味は限定される上に「話の論点を突く」という趣旨にも近い。「正鵠」を「的」に言い換えて何が悪いのかと思うのですよ。
という言葉の小ネタでした。
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