私たちは散々メガネを差別してきたではないか
メガネを禁止する職場があるとワイドショーで紹介されて、SNSでは猛批判を食らっているとか。
何とも馬鹿馬鹿しい。
メガネが差別されているなんて、「いまごろ何を」じゃないか。
物語の世界では、子供がメガネをかけていたらあだ名は容赦なく「メガネ」。しかも単なる特徴じゃなくて、度合いの差はあれネガティブな意味が含まれる。宮崎駿なんて若い頃にメガネをバカにされて物凄いメガネコンプレックスだったって言うし。
メガネをかけたブスあるいは冷淡な少女がメガネを外すと実は美少女でしたーなんて言うメソッドは、おそらく今でもどこかで使われている定跡だろう。これは、実は美少女なのに、美少女をブスに変えるメガネというアイテムでそれを隠していたということになる。つまり、メガネはブスなのである。
そもそも目の悪い人たちがコンタクトに替えるのも、利便性より見映えの問題を重視している人の方が多いのではないか?
バカは「これ差別です」と言われないと差別だと分からない
言っておくけど、私はこういうメガネ禁止にするような職場を良しとしている訳ではない。自分が経営者ならしない。問題は、この事が注目された途端に「差別だー!」と喚き散らす連中の近視眼的思考回路だ。君たちはちゃんと心にメガネをかけろ、と言いたい。
先述のように、メガネは大昔から今に至るまでずっと差別されている。が、多くの人は「はい、これ差別ですよ」と言われるまで気づかないだけだ。それを差別とは認識しないまま、メガネ差別をベースとした表現を消費するだけのブタだ。
ちなみに俺は眼が良いけどメガネはかけている
「さては貴様、めちゃくちゃ眼が悪いんだな?」
ところがどっこい、視力は生まれてこの方両眼1.5をキープしている。そこにわざわざ度なしメガネをかけて生活しているのである。
度なしメガネ=伊達メガネということではなく、視力は良いけど、病気の副症状もあって疲れ目が酷く、目の渇きと紫外線・ブルーライト対策のためにかけている。……だけではなく、私は人相が悪いし、ヘアスタイルも全く気にしないので、メガネをかければそれが特徴になるだろうという目論見もある。相席スタート・ケイちゃんの「メガネでブスを散らす」というアレだ。昔からメガネに憧れいてたというところもある。
皆もっとメガネに同情してあげて
メガネをかけるようになったら、まあ不便なこと。風呂入ったら曇る、ラーメン食っても曇る、クーラーの効いた車から降りたら曇る。激しい運動で落ちる、大型犬にじゃれられて落ちる。カメラのファインダーに当たる。ちょっと触っただけで汚れて拭く必要がある。
自分の場合は眼が良くてどうしても必要という訳ではないから、風呂なんかはもちろん、食事の時だって外せるし、カメラ撮影メインのお出かけの時もメガネは着用しない。
ところが視力矯正としてメガネをかけている人はそうもいかないのだ。私の友人でメガネなしではまともな生活もできないほど眼が悪い人がいるが、「そんなだと外泊の時のお風呂とかどうしてるんですか?」と聞くと、「風呂は眼鏡をかけた状態で一度下見してから入る」んだそうな。大変である。
メガネ禁止は差別なのか?
話を戻す。眼が悪いということは一種の障害で、メガネは医療器具だからそれを禁止するのは差別だ、という主張がある。じゃあ車椅子の人はどうなの?人工呼吸器つけてる人は?四肢に欠損がある人は?差別(区別)されているのは何も眼が悪い人だけではないのだ。
…と言うと、「それは“できない”という話であって、メガネをかけて支障をきたすような業務なんてない」とさらに反論が返ってくる。その通りだ。メガネをかけてプレイするプロ野球選手がいるのに、メガネで支障をきたすような仕事なんて現実にはほとんどない。
つまり、そんなものは建前で、やはり美醜の問題なのである。
そして、美しいということは能力なのである。
そもそもメガネで見た目はマイナスになるのか
「いまどきメガネがブサイクなんて、時代遅れにも程がある」
確かに、今のメガネは昔と違ってフレームにバリエーションがあり、安くてファッショナブルになっている。
が!それでも!
「メガネをかけたい」という人と「メガネを外したい」という人を比べたら、圧倒的に後者の方が多いはずである。私だってメガネ美人はめっちゃ好きだが、メガネをかけた方が美人になるなんて人は少数だろう。「メガネだって美しい」や「メガネだって違和感がない」は多くの場合強がりによる極論であて、ここでの問題は「許容できる範囲かどうか」に絞るべきである。
例えば、和装にメガネは合うか合わないかのどちらかで言うなら、やはり合わないのだ。少なくともメガネによって和服が映えるなんてことはまずない。問題は「強い違和感を覚えるほどかどうか」なのである。
差別は解消されるべきか?
この問題がバズるのは、メガネが美醜差別の原因になっているからだ。「見た目が良くない」を理由に禁止されるのは明らかに差別だろ、と。しかし、だから何だと言うのか。
例えば、演技力があるからと言ってそこらへんのブスが朝ドラの主役はできない。『VS嵐』は嵐というジャニタレがやるから皆が見たがるのであって、中身の性能が全く同じでも見た目が近所のおっさんであれば観る人なんていないのである。我々のほとんどがこういう役割を与えられないのは、書類審査で落とされるからだ。
近所のスーパーでは、レジが複数あるのに、あるベテランだけでめっちゃブサイクなおばちゃんの列はいつも空いている。客がほとんど女性の場合でも、である。
歯医者の受付嬢なんてま~皆美人だ。
我々はそれらをわざわざ「差別だ」とは言わないだけで、実は皆、美醜差別の消費者なのである。
美醜の差別だって、本来は健康や衛生などを基準とした本能的判断が基になっている。つまり、差別ではなく区別だとも言える。
まとめ
美醜の問題は、問題となった時に初めて差別だと認識される。この話題で「メガネ禁止なんて差別だ」と言う人は、これが今論題に上がっているから理性のスイッチがONになってそう言うだけで、そうではない時は理性のスイッチが切れ、感覚優位になって無意識のうちにメガネをかけている人を避けているかもしれないのだ。もちろんこれはメガネに限ったことではない。
大谷翔平の活躍を褒め称える時に、鼻ほじりながら「そりゃ193cmあるもんなー。170cmのワシなんぞはなから無理でんがな」と言うのはひねくれ者の僻みであり野暮なのである。そして多くの国民が大谷翔平を見ても、それが差別の象徴だなんて思わない。だが、間違いなく我々は差別を肯定している。
体格だけではない。運動神経や筋肉の付き方もそうだし、IQだってそうだ。絵を描く能力や音感だって。あらゆる能力は生まれつきの要素が多少なりとも関係している。つまり、この世は不公平であり、我々下々の人間は差別の海を溺れないよう漂うことに尽力するしかないのである。
【結論】本当に自分は誰も差別していないという人だけが石を投げなさい。
コメント