『人志松本の酒のツマミになる話』より関連するネタを2つ。
紗栄子の、「夫婦なのになぜ一緒にいたくないのか分からない」という男性に対する疑問です。
以下、あくまで私の個人的な経験と私の周辺の観測に基づきます。
男と女が「男女の仲」になると、とかく女の方はベタベタくっ付きたがるもの。屋内ではベッタリと身を寄せ、外に出れば手を繋ぎ、一人になるとSNSで「スキスキスキ」と不特定多数に向かって発信。
これが男には理解できないわけです。
「好き同士なのになぜひとりになりたがるの」という女性側の疑問は、そっくりそのまま「好きだからといってなぜずっと一緒にいたがるのだ」という男性側の疑問になるわけですよ。
そして翌週にはコメディアン・あべこうじの妻である高橋愛からの疑問、「ペアルックを勧められるのはイヤなのか」が論題に。
この2つの疑問についての男女の認識差は、根本的に同じものです。
正体は女性の「同化願望」
女性は好意を持った対象に対して「同化(融合)願望」が生まれます。
何をするにも一緒、同じ時間に同じ空間にいて同じものを食べて同じものを見て同じように楽しみたい。これは異性に対してのみのことではなく、例えば、「女子の友達がおそろいの服を着てディズニーランドへ」みたいな行動は男性にはほとんど見られません。1日のシメはプリクラで同じフレームに。これも女子特有ですね。
これが女同士なら良いんですが、男女になるとちょっとややこしい。
男性に好きな女性がいるとしても、そこに女性のような同化願望はないのです。
これ、別の表現をするなら、「自他の境界線があるかないか」の違いなんですよ。
男女のケンカはカオスにしかならない
一旦実例を。
これは男性目線の話になりますが、彼女や奥さんのいる男性諸君は、その彼女や奥さんとケンカすると厄介ですよね。
「ケンカが厄介なのは当たり前だろ」と思った女性の皆さん、それちょっと違うんです。
男性にとって女性とケンカするということは、そりゃもう大変なことなんです。
なぜかと言うと「終わりがない」からです。
槇原敬之の歌に『手をつないで帰ろ』という楽曲があるのですが、この歌詞はまさに男女の意識差を的確に表現したものです。あ、書いたのが槇原敬之ってとこに引っかかってる人はちょっと目を瞑ってください。
この曲のサビは、
なあ こっちむいてーなー きげんなおしてーなー
僕らの日曜日は夏休みほど長くない
というもの。
どうやら出かけた先でほかの女性に見とれていたことを彼女が怒ってしまい、それを男性がいくら謝っても許してくれない、というシーンのようです。
これが男にとっては地獄なんです。
男のというのはプライドの塊ですから、謝罪というのはかなり特別なことなんですよ。
でも有限の時間を有効活用するには戦争を終わらさなくてはいけない。これが午後にまで持ち込まれると予定していた目的地にはもう行けなくなる。
理に適った反論をすると「正論なんて要らない!」と火に油を注ぐことになります。
プライドを捨て、ひっくり返って腹を見せて、「俺が悪かった」と謝罪します。
ところがその謝罪の言葉は虚しく響くだけで、女性は男性が謝ったところで許してくれないのです。
その事情を斟酌もしてくれず、時計の針は残酷に月曜日に向かって時間を刻み続ける……。
男性の謝罪は女性にとって何の意味もない
ではなんで女性は男性が謝っても許してくれないのか?
定番のリアクションがありますよね。
「本当は悪いと思ってない」
正論を放てば怒らせ、謝っても「心がこもってない」と跳ねつけられる。
つまり、「謝罪」が最悪の結果だとすると、男女のケンカは始まった時点で、結構高い確率で男性にとって最悪より悪い結末を迎えることになるわけです。
男にとっては言葉が全て。
相手が「まいった」と言えば刀を鞘に納めるのが男の行動様式なのですが、それが女性には通用しません。
なぜか。
女性は好意の対象に「同化願望」を持っているからです。
「本心がどうあれ、謝ったのだからここまでにしよう」とは思いません。自分と好きな相手は、「心が一致」していないといけないのです。相手が謝ったところで、心が一致していないのだから怒りが収まるわけがないのです。
それこそが「自他の境界線」の問題なのです。
自他の境界線が曖昧、あるいはない女性にとって、ずっと一緒にいたいと思うのもペアルックを着たいと思うのも当たり前のことです。そして破局を迎えると、ヘタすりゃ交際していたことすら忘れてしまうのも根本は同じです。
ちょっと犬の話させて
これが人間の男女の話であれば、それは単に男と女の脳の仕組みの差であって、基本的には対等です。男性は女性のそういう心理を理解すべきだし、女性は男性のそういう考え方を理解すべきでしょう。その方が長く関係が続くでしょうから。
しかし、これは意図してそういうテーマを選んでいるわけではないのですが、私が書いているもうひとつの姉妹ブログ『犬小屋』ではたびたび女性の「自他の境界線」問題を取り上げています。
世界的に有名なシーザー・ミランというドッグトレーナーが、しつけに失敗した犬とその飼い主をトレーニングする番組があるのですが、彼がよく言うキーワードこそ「自他の境界線」なのです。
これは別にシーザーに倣ってというわけではなく、私のしつけ論もそこに着目して書いているのです。
『犬小屋』の方ではさんざん書いておりますが、簡単に要約すると、
●専用のタンスがいるほど「可愛い服」を買って着せる
●休日のお出かけは、そもそも犬が行けない所は選択肢に入れないくらい、犬を連れ回す
●誕生日はもちろん、お正月、クリスマス、「うちの子記念日」など事あるごとにお祝いをしたがる
●その際は犬にグラム1500円の黒毛和牛を買って食べさせる
このようなことをしたがる飼い主は、自他の境界線を引けていないダメ飼い主であり、概ねこういう飼い主はしつけもちゃんとできない確率が高いのです。
飼い主側から【一方通行で】一心同体として扱われてしまう犬は実に哀れなものです。誕生日を祝われようが可愛い服を着せられようが犬には分からないこと。でも飼い主にとってそこはどうでも良いのです。インスタに上げたらワンコ友達が「ココアちゃん、可愛い服買ってもらって嬉しそうだね♪」と無責任な称賛コメント。「私が可愛がってるんだから犬は可愛がられてるんだ」「私が幸せなんだから犬も幸せだ」という認知錯誤は、「自分と犬は違う」という当たり前のことを理解できないことが原因です。
フェミニストの皆さんに聞いてみたい
さて、最後に重要な部分。
以上に書いたことは、私の目には「明確な男女差」として映っているのですが、この辺、フェミニストとかジェンダー学の学者さんなんかはどう認識されているのか、大きな関心があります。
というのは、この話っていかにもコンパなどで交わされる軽い話題に見えますが、「男女の違いはどこにあるのか、あるいは本当は違いなどないのか」という重要な問題でもあるんです。
前々回のそこまで言って委員会。「男女は50:50で存在するのに社会ではそうなっていないのは歪があるから」←この考え方こそが歪である。 pic.twitter.com/dlkKrnNXKJ
— 小ライスおかわり (@shorice_hitotsu) May 3, 2021
この私のツイートは、2021/4/18放送分の『そこまで言って委員会NP』を観た感想です。 この回の放送で男女平等が論題に挙げられたのですが、SNS運営者である岩崎由夏が女性の社会進出が進まないことを憂えており、いわく、「人間の半分は女性なのに、企業経営者に女性が僅かしかいないのはおかしい」と。
失礼ながら、こういった考え方……と言うより論じ方?は極めて短絡的で表層的な議論しか生み出しません。
社会を見渡して目立って数字に表れている男女差は主として政治家と起業家の男女比ですが、そこに注目するならなぜその前に学歴の男女格差に注目しないのでしょうか。なぜ囲碁将棋のプロ棋士の男女比に注目しないのでしょうか。そしてなぜこの記事で書いているような男女の考え方の違いに注目しないのでしょうか。これらの違いは生得的なものなのか習得的なものなのか、どちらなんでしょうか。
「政治家」とか「起業家」とか、いかにも分かりやすいキーワードだけ扱ってもジェンダーの本質って見えないんですよ。
ということでその手の活動家や学者の皆さん、ここら辺に着目して説明して頂けないでしょうかね?
コメント