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【選択的夫婦別姓論】第3の選択肢

ジェンダー
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夫婦は同姓?別姓?いや、3つ目の選択肢!

「選択的夫婦別姓」について、私の主張の主たる部分は過去に書いた通りなんですが、どうもその主旨をご理解頂けていないようで、ちょっと表現を変えて書き直してみます。

まず、言葉がワチャワチャしないよう、この記事でのローカルルールとして、

名字=「氏名」の上半分という意味でしかない、いわゆる「名字」

姓=上記の「名字」に本来の姓の性質、つまりファミリーネームと言う役割を加えたもの

と定義しておきます。本来は「名字」もこの定義では不足ですが、ここはあくまで便宜上の話。

 

さて、次に「姓」について私の思想的立場は次のようになります。

・職場における(主に女性において)名字がコロコロ変わる事象は実に煩わしい問題であり、女性差別である。可及的速やかに改善すべき。

その手段として今、選択肢が2つ前に置かれているわけですよ。

A.結婚すれば夫婦同姓が当たり前。ただし女性には職場での旧姓使用は認めるべき

B.結婚しても夫婦別姓にすれば良いじゃん。同姓か別姓か選択できるようにすれば皆幸せじゃん。

で、この2つしか選択肢がないのなら私はAを選ぶのですが、そもそもこの2つしか選択肢が挙げられていないという時点で、この議論はレベルが低いのです。

頭の良い私は3つ目の選択肢として、

C.制度としての姓を廃止する=自由化する

を提示しているわけですよ。

理屈としては過去に書いた通りなんですが、あれで理解されないというのは、本来この手の話はテキストよりも音声で抑揚をつけて語るべきことなのかもしれません。しかしブログは不便なもので、テキスト情報しか扱えません。

辛坊治郎氏の見解

……と思っているところに、『そこまで言って委員会NP』の辛坊治郎氏降板スペシャルで、辛坊氏が私の言いたいことをそのまま語ってくれていますので拝借します。

リンクをクリックすれば動画を観ることができます。いわく、

「今日から田中一郎だと言われたってかまわない。俺は俺だもん」

そして私は1年前のブログで、

私自身は自分の姓というものに特段のこだわりはないので、「明日から戸籍の上では『田中』と名乗って下さい」と言われれば、別に構わないんですよ。

例の挙げ方まで全く同じです。もちろん1日5~6人しか読んでいない当ブログの読者の中に辛坊さんがいるわけがないので偶然なのですが、考え方は全く同じということですね。

さらに、辛坊さんは、「名前も結婚も国家に管理される時代じゃない」と言います。ハイ、これも同じ。

自分のブログから引用します。

夫婦同一姓にこだわる人が「妄想」に憑りつかれているとしたら、結婚という制度にこだわるこのご家族もまた同じく「妄想」に囚われているのですよ。

 

もし結婚する意味が、会社からの手当てや税制上の扶養控除だというのなら、その制度さえきっちりしていれば結婚なんて必要ないということになりませんか?

つまり、法律上結婚なんて制度がなくても結婚するのは勝手なんだから、皆自由に結婚式でも披露宴でもやりゃいいんですよ。やりたいカップルはね。ってことです。何も法律で「結婚」の手続きや定義を決められる必要などないのですよ。

名前も同様。皆好きな名前を名乗ればいいじゃん。

そもそも「姓」って何か考えてみろって

日本人の名前は2つのパーツに分けられますよね?

「姓」(氏)と「名」

です。

「名」は「個人を区別するための呼称」。では「姓」は何ですか?「家族を区別するための呼称」です。分かりますか?

夫婦って家族ですか?家族ですよね?

では夫婦で別姓にしたらどうなりますか?

同じ家族なのに、違う家族名を名乗ることになるんです。

じゃあ、それって「姓」じゃありませんよね?

改行多めで丁寧に解説してるんですが、これがパラドックスになっていることが理解できますか?

冷静に、ゆっくり、ひとつひとつ考えてみて下さい。それは「姓」ではないのです。

 

私は夫婦で違う名字を名乗ることに何の異論もありません。ただその名字は「姓」ではないよ、と言ってるだけ。

あなた方が主張すべきは、「廃姓」であり「名字の自由化」なのですよ。

この違いが分からないのは、「姓とは名前の上半分のこと」という軽薄極まりない認識しかないからなのです。

 

なぜそこまで姓にこだわるの?

あなた方は夫婦同姓派を「頭の硬いネトウヨめ」と言うかもしれませんが、私から見れば両方ともガチガチなのです。

一見、夫婦同姓派の方が古い文化風習に囚われていて頭が硬いように思えますが、だったら別姓派だって「日本人には姓が必要」というつい百数十年前にできた文化に囚われているではないか!なんですよ。

そもそも日本人全員が姓を持つようになったのは明治維新の時であって、それまでは武士と特別な身分の、日本人全体からすればほんの数パーセントしか姓を持っていませんでした。

明治維新を機に全国民に苗字が許されたのは、ひとつにはもちろん「身分の平等化」がありますが、今ひとつ大事なことは「住所と名前の組み合わせこそがID」だったということです。中央集権化するにあたって、旧来のやり方で個人を特定するのは難しかったのでしょう。郵便物を届けるにも課税するにも「●●村の太郎吉」では頼りない。「●●町●丁目●ー● 田中太郎吉」で、ほぼ100%個人が特定できるようになります。

姓なんて、権力者の都合で作った程度のものでしかないのに、今の夫婦別姓派はそれをかけがえのない財産のように後生大事に扱っているのは、滑稽としか言いようがありません。

※すんげールサンチマンっぽい言い様ですが、うちの先祖は武士なんで昔から物々しい名前があります。その上で、そんなもんに拘ってるヤツはカス!と言ってるんです。

今一度、ニュートラルな目線に立って考えてみよう

辛坊さんが言うように、今は死にかけのお年寄りから生まれたばかりの赤ちゃんまで振られた背番号=マイナンバーがありますから、ハッキリ言って名前なんざどーーーだって良いのです。

私が以前に書いたブログは「そうは言っても行政が個人の名前に一切関知しないというわけにもいかないだろうから、自由化したうえで住民票程度には登録しとくことになるだろうね」という前提で、「姓を廃止して、長い名前を個々が勝手につければいいじゃん」という提案だったわけですよ。

ほぼコピペになりますが、これを夫婦別姓と同じじゃんという人は考えの浅い人で、結局夫婦別姓って子供の名前はどうするの?って問題が出てくるんですよ。ほれ、そこまで考えてなかったでしょ?だから私は「完全な自由化」とか「二重姓」を提案したわけです。頭が良いから。

このブログで口癖のように言う「対立構造に組み込まれるな」と言うのはまさにこういうシーンでアホにならないための教訓で、俯瞰的に物事を観る頭がないと実はそこにある第3の選択肢が見えなくなってしまうのですよ。

あなた方に文化を破壊する権利などない

何度も書くことになりますが、「姓」の概念は歴史的にやや複雑なところがあるものの、ひとつ間違いのないことは「姓は個人を識別するためではなく家族を識別するための呼称」だということ。それが「姓」であり、長い歴史において文化的な意味合いを崩さずに今に至るわけです。

それを「男女平等の時代だから」と言って別姓を名乗るということは、現代の日本人の勝手な気まぐれで文化を破壊してしまうことになるのですよ。

もしそんなことが実現してしまったら、「202x年、“姓”は全く違う意味になった」と後の歴史の教科書に記述されることになります。だったら「202x年、国家権力が管理する“姓”は廃止された」の方がはるかにスッキリし、文化的価値を棄損することもありません。歪な形で残すより、廃止して自由化すりゃ良いんですよ。夫婦別姓派は夫婦で違う名字が名乗れさえすれば良いはずでしょう?

我々の“本名”は12桁の数字。そして社会においては、これまでの芸名、源氏名、ペンネームなんかと同様に好きに名乗って良い。一応利便性のため、名前は2つのパーツ(前名+後名)に分けるものとし、便宜上「前名」を「名字」と呼ぶことにする。そしてそれを住民票に登録しておく。変更は年に2回まで可能、手数料は500円。自分のルーツに拘りたい人は元々の姓を前名とすれば良いし、全く新しい名字を使いたければそれでも良い。

……と、こう言ってもスッキリしない人ってのはいるんでしょうね。「自由化までされると値打ちがなくなっちゃう」と思っちゃうんでしょうか。でもこれで何が困るというのでしょうかね?

 

「選択的」なんだから良いだろ!は暴論の極み

「選択的」なんだから好きにすれば良いじゃん、何を困ることがあるんだよ!という理屈は端的に言って暴論です。

ある日を境に「選択的夫婦別姓」が導入されたとしたら、それまでの定義による「姓」、つまりファミリーネームとしての名字を使っていた人の「姓」まで、第三者から見れば「ファミリーネームじゃないかもしれない」ようになるわけです。これは夫婦別姓派の人にとってはどうでもいいことかもしれませんが、「姓とはファミリーネームである」ことに拘りを持っている人にとっては許せないでしょう。つまり、「選択性」とは言いながら、「社会が認識共有するこれまでの“姓”を使う」という選択肢は排除されてしまうことになるのです。※言っておきますが、私がそういう拘りを持っているというわけではありませんからね。

 

これを以前は、通貨を例に挙げて説明しました。

我々が「円」と呼ぶ通貨は、日本銀行と政府のみが発行できる国家権力によってその信用が保証された経済メディアです。それを誰かが「うちはうちで“円”を発行する。どっちの円を使うかは個々が選択すれば良いんだから誰も困らないでしょ」と言ってるようなものだと。

いやいや、それをやり出すと本来の円の価値が無くなるんですって。

 

別の例を挙げましょう。

「“課金”という言葉が誤用されている」という主張をした場合に、「我々は”課金”を『お金を支払うこと』と言う意味で使っているが、あなた方が旧来の『支払い義務を課すこと』という意味で使いたいなら否定しない。互いに自由で権利を保証し合うなら何の問題もないでしょ?」と言う人がいたらおかしくありませんか?何に金を使うかは個々の自由であっても、言葉の意味を変える権利は個人にはないのです。

 

さらに別の例を挙げましょう。

焼き鳥とは鶏肉を焼いた料理のことですが、北の民族が「うちでは豚肉を焼いたものを“焼き鳥”と呼ぶ。別に鶏肉を焼いたものを『焼き鳥と呼ぶな』と主張しているわけではないので誰にも迷惑かけませんよね?」と主張し始めました。すると本州民族が北に出向き、鶏肉を焼いたものを期待して「焼き鳥」を注文すると「焼き豚」が出てきて困惑することになるんです。

もしこの文化がその他の地域まで拡大すると、店に「名物焼き鳥」というお品書きがあっても常に「あれは鶏肉じゃないかもしれない」という疑いの目で見なくてはならなくなります。

私の主張は、「焼き鳥を出すのも焼き豚を出すのも自由なんだから、せめて不正確な名称を使うのはやめようぜ」というもの。最初から「串焼肉」と名付けておけば変な期待もしなくて良いでしょ、って話です。

 

焼き鳥の例がどう別姓と対応するか分かりづらい?

そう言われると私にもよく分かりません。

 

夫婦別姓でも解決できない問題

では、選択的夫婦別姓によってどのような問題が派生するかを考えてみましょう。

(1)戸籍どうすんの問題

(2)子の姓どうすんの問題

(1)について。

貼り付けた動画には含まれませんが、辛坊さんも「戸籍なんかいらんやろ」派です。ネトウヨが白目向いて怒ってきそうですが、マイナンバーは戸籍の上位互換機能を有してるんだから、それでも戸籍には必要と言うのは一種のセンチメンタリズムかあるいは外国人流入へのけん制意識でしょうね。でもその気になりゃいくらでも管理できるんです。

戸籍とはそもそも「家」という単位に基づいて国民を管理する台帳のことですが、その「家」という概念がこれほど希薄になった現在、いつまでも戸籍制度に拘るのは時代遅れというものでしょう。夫婦同姓であろうが別姓であろうが、戸籍は要りません。

厄介なのは(2)。

夫婦別姓にしたところで、子の名字は両親どちらかの名字から取るしかありません。これが物凄く嫌なんですよ。大人は自分の自由とか権利ばっかり主張して、子供のことを考えていると思えないのです。親が離婚することによって、子がその名字で翻弄されるのは夫婦同姓だろうが夫婦別姓であろうが同じこと。別姓になったからといってこればかりは解決できません。

となると、解決法は、

A.子には新しい名字を作る

B.子には名字そのものを付けず、社会に出る時に自分で付けさせる

の2つになるのではないかと。私はBで良いと思うんですけどね。実際問題、教育・保育機関でフルネームで呼ばれることなんて卒業式くらいのもので、単に個人を区別するだけなら今でもほとんど名字のみでできちゃってるわけでしょ。だったら名だけでも十分なんです。一応名前被り対策として、代表保護者の名字を「仮名字」としておく。

どーよ、これで。

 

大まとめ

今回の記事だけではなく、過去の記事も含めての大まとめです。

名前の制度の在り方を変えるのは構わないが、言葉は正しく使え。

上っ面の改革をやってもそれは心情的な自己満足を生むだけ。どうせなら根本からの改革を訴えよ。

廃姓あるいは名字の完全な自由化によって残る問題は「家族の代理権」だけで、これは「家族登録」制度の設置で解決できる。同性婚のパートナーシップ制度の上位互換にあたるもので、これにより同性婚はもちろん、国際結婚、子の姓の問題も一気に解決できる。

 

ということで、私は「案」を出しています。ある案に単に「反対」と言うのは議論ではありません。どの部分にどんな理由で反対するのかを明示することによって初めて議論が成立し、この案が採用されるかどうかに関わらず、そのやり取りは建設的で未来に活かせるものになるのですよ。

 

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