ラサール石井さんはあっちに行っちゃってる人
「やっていい事と悪い事がない」のが表現の自由なんですよ。個人個人が批判するのも自由。だから展示されたものを個人的に批判すればいい。
「一人の人間が複数の人を演じるなんて気持ち悪い」なんて言われても落語やめないでしょ。表現者がなぜ表現者を批判するかな。だからTBSで仕事もらえたんだよね https://t.co/9WQXEHRGOZ— ラサール石井 (@lasar141) October 10, 2019
ラサール石井さんって、もうK点超えてあっち側に行っちゃってる人なんですよね。政治家で言えば小西ひろゆきとか福島瑞穂とか、タレントで言えば室井佑月とか、文化人で言えば青木理とか、こういう人達と同じ病棟にいる人なんです。多分隣の部屋には松尾貴史なんかが長期入院中してるのかも。
「やっていい事と悪い事がないのが表現の自由」
とこんなムチャクチャなことを言っちゃうのは、この病に冒された人特有の症状です。
確かにその通り!だがラサールにその覚悟はない
これは、ある意味で真理ではあるんですよ。表現の自由は何物にも邪魔されてはいけない。その通りです。ところが、実際の社会の運営上、そんなことが認められる訳がありません。誰かの究極的な表現の自由は、別の誰かの表現の自由を奪うことになるからです。
例えば、女性をレイプするのだって「これが私の表現だ」と主張する人もいるかもしれません。しかしレイプされる側は自由を奪われることになります。
あるいは例えば、時に言葉は人を死に至らしめることもあります。物理的な暴力を一切使わずに、誰かを自殺にまで追い込むことがあります。その言葉だって「表現」ですから、「やっていいことも悪いことがない」を認めるなら、言葉の暴力も認めなくてはならなくなります。
つまり、ラサール氏が言っているのは、漠然とした理念としての「表現の自由」であって、社会とか法と言った概念はそこにはないのです。実際の「表現の自由」は当然ながら、他人に何らかの被害をもたらさない範囲でのみ認められるものです。
もっとも、このような規制のある「表現の自由」は、素の「表現の自由」よりも陳腐であるとは言えるかもしれません。逆に言えば、本当の「表現の自由」には、「善も悪もクソ食らえ」の混沌の世界を認める覚悟がないと肯定できないわけですよ。
この場合、ラサール氏への正しいツッコミは、
「言いたいことは分かった。で、お前にはその覚悟があるのか?」
でしょう。
そしてラサール氏にそんな覚悟があるわけがないのです。
別に彼の発言をずっとフォローしてたわけではないので知りませんが、同じことを同じ陣営、つまり同じマンションに住む連中に言ったことがあるのか?と。あんたは表現者を批判したことがないのか?と。同じことを味方には言わないし、表現者への批判もしてきたはずなんですよ。つまり、場当たり的に勢いで言っちゃった極論なんですよね。
良識ある意見もまたつまらない
これ別に志らくさんを擁護してるわけじゃなくて、元ツイートの、
グッとラック。表現の不自由展で素直に感じたこと。やっていいことと悪いことがあると子供の頃に親から教育を受けなかったのかなあ。
— 志らく (@shiraku666) October 9, 2019
という主張も、何というか、実にワイドショーのMCのお手本らしいって感じで、陳腐なものです。よく言えば「良識ある発言」ですね。
「表現の自由」ってわざわざ言わなきゃならないってことは、究極的には「表現の自由なんてない」ってことですから。志らくさんと言えば立川談志に最も愛された弟子の代表で、彼は本来「良識」を求められるイメージではなかったと思うんですよ。ってこれは私の勝手なイメージかもしれませんが、もっとこう、アナーキーでいてほしかったなぁと。
津田大介氏はトリックスター気取り?
話をぐーっと戻して、津田大介氏についてですが、この期に及んでも彼が何を考えているのかは私には分かりません。従軍慰安婦像、天皇のご真影焼き払い&踏みつけ、特攻隊員への揶揄、これらの真意の説明はいまだにありませんよね?
現時点での印象も、暴走族やバカッターなどと同じ、「目立ちたいだけの反日」どれだけ良く言っても「トリックスターを気取った過激サヨク」と言ったところでしょうか。
津田大介氏については経済評論家・上念司氏が『おはよう寺ちゃん活動中』ないで簡潔かつ的確に評されています。相変わらず時間当たりの情報量がすごい人ですね。この動画では、右翼的な匂いのする歌手の歌詞や服装を弾圧したり、右翼的な匂いのする文化人の講演を潰そうとしたり、一体だれが表現を不自由にしてるんだ!と批判されています。『虎ノ門ニュース』では同じく上念氏が、「本当に根性あるならウイグル人弾圧してる中国を批判しろよ」と批判。全くその通り。
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