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オリンピックも『24時間テレビ』も究極の差別コンテンツである

24時間テレビ 差別

皆さん、「差別」は好きですか?

好きって人はなかなかいませんよね。

じゃあ「差別」はなくした方がいいですね。

では、皆さんが考える「差別のない世界」ってどんなものでしょうか。

はい、そこのハゲた男性のあなた……ふむふむ、なるほど、でもそれ差別ですから。

では次、そちらのBMI高そうなご婦人……ふむふむ、いやいや、そこにもガッツリ差別は含まれてますから。

……というようなお話をします。

 

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「差別解消」はミゼットプロレスラーから職を奪った

まずは多くの人が知ってそうなお話から。

小人症という病気がありますね。体が成長せず、極端に小さいままでいる病気です。

で、そういう小人症の人が集まってやる「ミゼットプロレス」というのがあります。

これが「障害を見世物にしている」として、一部の活動家が中止を求め、いまやミゼットプロレスは完全なアングラ文化になってしまいました。

そのミゼットプロレスのレスラーだったリトルフランキー氏(日本人)は、「彼らは仕事を奪っただけで代わりの仕事を与えてくれなかった」と嘆きました。

さて、活動家たちのやったことは「差別をなくした」ことになるのでしょうか。それが「正義」だったのでしょうか。

いやいや、よく考えたらパラリンピックとミゼットプロレス、一体何が違うんですか?これに対する明確な答えってあるでしょうかね?

 

オリンピックは究極の差別コンテンツ

さらにいやいや、パラリンピックを引き合いに出さずとも、そもそもオリンピックって強烈な差別でしょ?

例えばバレーボール見てください。日本人ですら平均身長は190cmを超えてます。

バスケットボールの八村塁選手なんて203cmですよ。

日本人ド平均である5尺7寸の私なんぞ最初から蚊帳の外。血が出る程手を噛んだら少し大きくなるんですが、それでも数cmの話で180cmにすら及びません。

最初から「チビお断り」なのです。

「私が大谷翔平と同じ体格を持って生まれていたら」を家のコンピューターでシミュレートしてみたら、年間投手で45勝、HR80本の成績が残せると出ました。しかしそれも虚しい話。なんせ私はごくフツーの日本人の体格の持ち主だからです。

オリンピックと言えば、興味はないけどたまたま大阪なおみ選手のテニスの試合を見てたら、大阪選手が180cmで、対戦相手は169cmとのことでした。手の長さも当然違うでしょうから、ボールを打てる高さの限界は最低でも15cm以上違うことになります。15cmの差はめちゃくちゃデカいですよ。なんせ、いくら筋力を鍛えて強いサーブが打てても、打点が低いとサーブが入りませんから。体が小さいと緩いサーブしか打てなくなるのです。そして、「障害」というレベルにならない限り、このような先天的な身体の差は考慮してくれません。

え?競馬のジョッキーなど体が小さい方が有利な競技もある?だから何ですか?体の大きな人にとってそれは差別ですよね?

射撃は体の大きさが関係ない?そりゃそういう競技【も】あるという「も論法」であって、だから「差別がない」ということではありませんね。

さらに言えば、体には表れない「才能」だって生得的な部分がかなりあるでしょうから、結局何やったって差別なんですよ。

でも「オリンピック憲章」を読んでみると、

2- 人種、宗教、政治、性別、その他に基く、国もしくは個人に対する差別は、いかなるかたちの差別であっても、オリンピック・ムーブメントへの帰属とは相入れないものである。

と、厳格に差別を禁止するような文言が書かれてあるんです。これ、おかしくありませんか?

『24時間テレビ』を観てみよう!

夏の風物詩、日本テレビ『24時間テレビ』については、いまや好意的に見る人は周りにほとんどいなくなりました。

説明する必要はなさそうですが、この番組はインチキと偽善に満ちているためですね。

「チャリティー」と謳いながら出演者には高額のギャラが支払われている。

マラソンでインチキしている。

結局社会的弱者が見世物になっている。

わかります。茶番です。

しかし、私がここで言いたいのはそういうことではなく、この番組自体、社会から払しょくしがたい差別を色濃く残す差別コンテンツであり、大いなる矛盾を露呈しているからです。
※一番最後に書きますが、この番組は残すべきという立場です。

理由は簡単、毎年ジャニーズ出てるじゃん。

ジャニーズってどういう集団ですか?説明するまでもなく、イケメン少年だけを集めた大手タレント事務所ですよね?

ジャニーズ事務所に入りたい!と思えば誰でも入れますか?入れませんね。ほとんどの人は書類の写真だけでポイ!です。

ジャニーズに入るには厳格な美醜の判定が下されます。すなわち、ルッキズムです。

ルッキズムは言うまでもなく差別です。

差別・偏見をなくすためのチャリティー番組?

はぁっ!?

 

みんな「世界に一つだけの花」なんだよ!

ジャニーズと言えば、すでに解散してしまいましたがSMAPという国民的アイドルグループがありました。彼らの代表曲と言えば『世界に一つだけの花』。300万枚を超える大ヒットで、平成年間で最も売れた曲となりました。

歌詞の要旨は、「ナンバー1なんか目指さなくても良い。皆がそれぞれかけがいのないオンリー1なんだよ」って言う、まあお前に説明されなくても皆知っとるわい、ですね。

で、この手の歌を歌うと言ったら、昔は臭ってきそうな汚らしい格好をしたフォークシンガーと相場は決まってたんですが、この曲を歌ってるのがルッキズムで超勝ち組になった5人組たるSMAPなんですよ。中居君なんて平均的サラリーマンの生涯年収を1年で軽く超えると思いますが、そりゃーなんだって言えますよね。満たされてる人には。

持てる者が、自分が持てることを棚に上げて「平等」を唱える。そう、上念司氏の言う「世田谷自然サヨク」そのものです。

年収〇億円の持てる者が、年収100万円台の生涯結婚もできなさそうなフリーターに向かって「君はそのままで良いんだよ、かけがいのないオンリーワンなんだよ」(お前がどこの誰かは知らんし興味もないけど)と語りかけているわけですよ。

要するに、被支配者は永遠に被支配者のままでいることを甘受し、決して向上心など持ってはいけないんだぞ!と啓蒙しているわけです。

 

「やっぱり小ライスってヤベー奴だ」

と思い始めたそこのあなた。もう少しガマンして読みましょうか。

 

ポジティブな差別は「差別」と認知されない

何を言いたいかと言うと、ポジティブな表現を使われる差別は「差別」と扱われないということなんです。

簡単に言えば、「美人」はOKだけど、「ブス」はNG。これがいわゆる「差別」なんです。

いや、それぞれが公平に差別だと扱われる場面もあるにはありますよ。「美人社長」とか「美人弁護士」など、そもそもそこに美醜の価値観を入れること自体が差別だ、と。でもそんなのほんの一場面で、さらに「美人」という言葉すら使わずに差別なんていくらでもできるわけだし、実際に社会は差別で溢れています。

例えば、朝ドラの主人公はどうやって選ばれるでしょうか?プロデューサーにその理由を聞いたところで、「凛とした表情に意志の強さを感じ、この物語の主役にピッタリだと……」とか何とかそれっぽい言葉を並べるでしょうが、早い話「可愛かったから」「美人だったから」ですよ。現実問題、「ブスお断り」なんですが、そんなの口が裂けたって言えませんね。そして、その辺を歩いてるブスが朝ドラの主役になれることは今後もないわけです。

 

行く先のなくなった被差別者

さて、ここまで読んである大きな構図が見えてきたでしょうか。

リトルフランキーさんの話は、要するに、世田谷自然サヨク的な人種から「ポリコレ」という分厚い包装紙で包まれ、見えなくされただけで、社会的弱者がより弱者になった=差別が酷くなった、だけなんです。

これは芸能エンタメ産業全体に言えることで、例えばお笑い芸人は所謂「差別的な」笑いがしづらくなってきています。特に吉本新喜劇なんかは、「ブス」「バカ」「チビ」「出っ歯」「活舌が悪い」等々、差別のオンパレードです。

彼らが仕事ができなくって、ブスやバカやチビはどこへ行けばいいのでしょうか。普通の会社に就職したって、不可視化された差別の荒波に抵抗しながら生きていくしかありません。会社の人事担当は「ブスだから不採用にした」とは言わないでしょう。結局、ハードモードの人生が、ベリーハードになるだけなのです。

一方で、ジャニーズや朝ドラ女優には、「ポジティブな差別でもなくそう」という圧力は作用しません。なぜなら、それはポジティブだからです。何より、視聴者がそれを求めているからです。私だってブスより美人が良い。これを「差別」だと言われたら、口には出さないだろうけど、心の中までは変えられません。

つまり、ポジティブな差別で人生を謳歌する人は未来永劫「人生はずっと春」である一方で、差別される人は「差別されていないことにされる」だけで、静かな差別を受け続けることになり、さらにその差別をネタにして笑いをとって金を稼ぐこともできなくなりつつあるわけですよ。

で、差別はなくせるか?

究極的に差別をなくすのであれば、「好みのタイプ」すらあってはいけないのです。「背が高くてぇ~」はい、アウト!「小柄だけどおっぱいが大きくて」はい、アウト!「おっとりしてて」それも性格差別なのでアウト!

しかししかし、そういう「差別」は、我々動物としての人間が、より確実に強い子孫を残そうとするための本能的判断であり、科学的な合理性があります。我々は左右対称の顔を美しいと感じるらしいのですが、それは身体上の不具合がある可能性が低いからだとか。まあ、本能ならしゃーないでしょ。

悪いのは全てこの世をお創りたもうた悪趣味な神様であって、我々無力な負け組人類は、差別の海を、時には波に抗って泳ぎ、時にはぷかぷかと漂って、今世をやり過ごすしかないわけですよ。

で、社会的には多くの人が程よいと思うところで差別について論じていくことになります。未来永劫。

……という脈絡において『24時間テレビ』がどういう役割を果たしているかというと実に単純で、普段は社会的弱者のことを考えもしない健常の情報弱者たちに、社会的弱者の情報を与えることができるんです。たとえその時だけであっても、何もないよりはずっと良い。高額のギャラを持っていくジャニタレにムカついたとしても、別に他の番組でだって高額のギャラはもらってるわけで、そこは割とどうでも良い話。多くの人が社会的弱について知り、10億円規模の寄付金が集まる。やらない善よりやる偽善。それだけでも『24時間テレビ』の存在意義はあり、そこが大衆にとって「程よいライン」なのですよ。

私は観ないけど。

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