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DaiGoの問題発言を斬ってみます。

DaiGo 心理学

メンタリストDaiGoが結構強烈な差別発言をした問題について、(多分)小ライス独自の目線から語ってみようと思います。

※サムネイルはDaiGo氏のYouTubeチャンネルより切り取り。

 

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DaiGoの主張は「弱肉強食社会の肯定」

えーと、しばらく退屈な倫理の話をします。

ホームレスは街中で嵩張るし、臭いし、不潔だ、だから必要ない。

生活保護受給者は、自分で稼げず、税金で食っている、だから必要ない。

じゃあDaiGoさん、ついでにもうワンステップ行っときましょうよ。

障害者は、自身で食っていけない上に、車椅子で道の幅を取る上に、彼らだけのために特殊な設備などを用意しないといけない、社会にとって明らかに足枷になってるんだから必要ない。

って。

つまりはどういうことかというと、DaiGo氏の主張は「弱肉強食社会の肯定」であり、さらに言えば「政治の否定」でもあるんです。

 

人間はなぜ利他的行動をとるのか

大昔の原始社会において、政府というものはありませんでした。昔になかったものがなぜ今あるのでしょうか。

それは、我々が自分たち自身を共同体と認め、誰かに生活する上の障害が発生したら皆で助け合おうと決めたからです。

※ここでは話を分かりやすくするため、「強者の支配による統治」は一旦横へ置いといて、「民主政治」のことを「政治」としています。

このニュースは、「縄文人がどうやら障害者を介護していたらしい」というものですが、この障害者を誰がケアして、何歳くらいまで生きたのかという情報は、(少なくともこの記事からは)分かりません。

しかし、縄文人と言えば、知恵の蓄積がないだけで、遺伝子的には脳本来が持つ知的レベルは現代人とほとんど変わらないはずなので、その共同体(村)で、彼を世話していた可能性もあるわけですよね。

ではなぜ人間はこういう利他的な行動を取るのでしょうか。

例えば、複数の家族の中から若い男を駆り出して、共同で狩りに出たとします。当然狩りの途中で怪我をすることもあるでしょう。そしてその怪我が重傷ってこともあるでしょう。生涯狩りには出られない体になってしまうこともあったでしょう。

その時に、「あいつは役に立たないから殺せ」となった場合、それにどれほどの人が賛同するでしょうか。明日は自分がそうなるかもしれないという状況下で、「役に立たなくなったから」という理由でなかなか殺せるものではないでしょう。もしそんなことをしてしまったら、今度は皆が危険な仕事をしなくなってしまう可能性もあります。そうなると、共同体全体の生産性が下がってしまうわけですね。

いわゆる秘境の部族なんかで、やたら勇敢さを称賛する文化があるのは、つまりはそういうことじゃないかと思います。

 

怪我を恐れて働かなくよりは、働いて怪我をしたら皆で世話をしよう

こういう考え方が生まれて当然でしょう。

 

社会的弱者を皆で助けるというのは、そうやって培われてきた人類の知恵であり、秩序と言えます。自分が明日交通事故に遭って車椅子生活になるかもしれない、自分の子供が障害をもって生まれてくるかもしれない、事業が失敗してホームレスになるかもしれない。そういう時のために社会福祉があり、それを実践する機関として政府が存在するわけですよ。

 

あ~、すんごくつまらない先生の社会の授業みたいになりましたね。

 

そりゃ知らん人間より知ってる猫の方が大事だわな

一旦脈絡を断ち切って、ザックリした話をします。

これを読んでいる貴方は、「動物より人間を大事にする」価値観についてどう思いますか?

例えば、貴方が飼っている犬とどこかの知らないおっさん、この2つの命が天秤にかけられることがあったとしたら、どっちを助けますか?

少なくとも迷いますよね。

犬は「3歳になったばかりの賢くて元気な犬」、人間は「管だらけでほとんど植物状態の100歳の男性」であればどうでしょうか。

こういう条件の付け方で、さらに判断は揺らぐと思います。

 

人間はそれぞれが勝手ですし、私も勝手な人間の一人として、「人間は常にその他の動物より価値が上」なんてことは思っていません。

「自分の愛犬であろうと、その愛犬を犠牲にして人間が一人助かるのであれば捧げる」と言う考え方は、一見カッコよく映ります。

だったら同じ人に、「家族と赤の他人であったらどうか」を聞いてみるとどういう返答が返ってくるでしょうか。

こういう疑問が生じるのは、私がややサイコパス寄りの人間だからだと思います。

そして一般的な価値観を持つ普通の人なら「家族に決まってるでしょ」と答えると思います。

ここで、そういう価値観を持つ人にとって「ペットは家族になりえない」という論理的帰結が得られることになります。

この論理を突きつけると、今度は普通の人達もまたモヤモヤするのではないでしょうか。

これは姉妹ブログ『犬小屋』の方で書くべきことなのでしょうが……。

人間都合で勝手に繁殖させられ、金で取引され、望まない家に引き取られ、でもいざという時には見知らぬ人間の方を優先される。だから犬など飼うべきでないと私は主張しているのです。

 

「家族」と「他人」を区別するのは「差別」?

ま、そりゃ置いといて、話をほんの少し戻します。

貴方にとって「家族」と「家族でない人」に線を引けば、それは差別ではないでしょうか?

と聞くと、多くの人は「差別ではない」と答えるでしょう。

なぜなら、それは当たり前すぎることだからです。人は、自分にとって当たり前すぎることに疑問を抱きません。

自分の家族と家族でない人、どちらかしか救えない状況があったとしたら、ほとんどの人は家族を選ぶでしょう。私もそうなんですが、私にとってその選別は「差別」です。

その当たり前すぎる価値観に疑義を呈したのが、釈迦であったりキリストであったりするわけですよ。

何が言いたいかと言うと、皆自分の物差しを持ち出して倫理を語るわけです。で、平均的な人間同士、その物差しは似通ってるから共感を得られやすい訳ですが、その物差しが正確かどうかという問題はまた別だってことです。

DaiGo氏の問題発言を前段と後段に分けた場合、少なくとも前段部分って、利己的な自分を正直に出しただけで、本人がそう思うのなら、それを間違ってるだの何だの言う筋合いは他人にはないのですよ。あくまでも彼の価値観の話であって、個人の感想以上のものではありません。これが政治の話なら大問題ですが。

今回の騒動はDaiGoの計算?

今回のDaiGoの騒動は、謝罪まで含めて彼自身が作ったシナリオだという見方もあります。しかし、私はそうは思えません。

彼に、ホームレスや生活保護について国民の関心を向けるという崇高な思いがあったとしても、このようなやり方はあまりにコストが高くつき過ぎます。

いわゆる炎上商法をしなければいけない人というのは、自分の人気を高める余地が十分にある、言い換えると人気のない人であって、DaiGoのようなインフルエンサーはやる必要がありません。

今回の騒動でDaiGoは信用と社会的地位を大きく棄損したわけですが、とてもそれ以上の実りがあったとは思えないのです。

本当にホームレスや生活保護について問題視していたのなら、通常運転でやれば良かったこと。

もっとも、私がそう思わされているだけでひょっとしたらその上の目線から何か狙いがあった可能性もあります。しかし、その可能性を想像してもあまり意味のないことであって、ここでは今回の騒動が「彼の天然」が生んだものという前提でお話しています。

 

DaiGoの問題発言は強者の目線が生んだ

ではなぜ、DaiGoはこのような失態を犯してしまったのでしょうか。

これについては、偶然にもつい先日紹介した『岡田斗司夫ゼミ』の同じ放送回に答えがあります。ここでは切り抜き動画を貼りつけておきます。

要旨は、

「頭の良い人ほど下級国民を差別する」

「彼らには明確な“差別”の定義があり、その定義から外れることであればどれほど人を見下しても良い、という観念を持つ」

というものです。

俺は間違っていない。なぜなら俺は頭が良いからだ。

という自信過剰と無謬性が引き起こしたものだということになりそうです。

 

多分DaiGoは精神的に不安定だと思うよ

それともう一つ。これは私の見解ですが、DaiGoはその生来の頭の良さに加えて、元いじめられっ子という経歴を持っています。

頭が良いという特性は、それ自体がいろんな障害を引き起こす可能性を孕んでいます。さらに8年間もの長期間壮絶ないじめを受けていたとなれば、精神バランスを維持し続けるのも大変でしょう。

これは想像でしかありませんが、元々の性格に加えて大きなトラウマを持ち、ただでさえ付き合う相手を選んでいるところに長期のコロナ禍、潜在していた双極性障害が顔を出し始め、躁状態だと攻撃性が先鋭化することになります。万能感と「理屈が通っていれば差別をしても良い」というパスポートによって、涼しい顔で弱者を罵倒するようになる。

……とそんなことを考えてしまったのですよ。

でなければ、反論に納税額のことなど持ち出さないと思うんですよね。

 

所詮、成功は運である

これまた先述の『岡田斗司夫ゼミ』の講義内容の話なのですが、人間の成功はどこまでも運だというサンデル教授の書籍を紹介しているのです。「才能」と「努力」を分けても、努力できるのもまた先天的な脳の才能の問題である、と。

さらに社会的な運というのもあります。

今はどういうわけか非公開になっているのですが、武井壮氏は自身のYouTubeチャンネルで「自分の能力は同じままなのに、偶然の出会いが今の自分の芸能界で活躍できている状況を作った」という旨の発言をしています。

つまり、武井壮氏がテレビに出るようになったのは、それまでの彼に比べて格段に運動能力が上がったとかトーク力を身に付けたとかではなく、今のマネージャーや知り合った有名タレントのおかげだということです。テレビに出るようになって、収入は軽く10倍以上になったと思われますが、別に彼の能力が10倍に上がったからではありません。「能力」と「社会的地位」あるいは「収入」は必ずしもリンクはしない、こんな当たり前のことが分からなくなるというのは、躁状態による判断能力の欠如ではないかと思います。

 

今後のDaiGoは?

今回の不祥事は、彼の「メンタリスト」という肩書から言っても大ダメージです。

これだけ世間の反発を食らったことについては、「メンタリストのくせにこんなことも予想できなかったのか」と二次的な批判を食らい、謝罪したらしたで「それも分析に基づいた演技だろう」とやはり反発を食らいます。

つまり、彼の職業やキャラクターから言って、今回の騒動は絶対に犯してはならないミスだったわけですよ。

しかし、それは割と上っ面の問題でもあって、人間である以上ミスは犯しますし、このミスが彼のこれまでの主張を覆すものではなく、役に立つと思えば観続ければ良いし、今回のことで説得力を感じなくなったのであれば観なくなるでしょう、というもの。

私は熱心に観ていたわけではありませんが、前者です。別に彼の擁護をするわけではありません。今回のような発言は「クズ」のレッテルを貼るに相応しいと思います。しかし、彼の配信は興味深いものが多く、役には立つのですよ。

ひょっとしてキャラ変とかするのかな?

 

 

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