田村淳氏いわく、
僕は掃除の時間で学んだことは一つもない
のだそうです。
だから、学校の掃除なんかのために多忙な教師の手を煩わせるより、外部委託した方が良い、と。
この記事には「共感の声」とありますが、ツイッターを見てみたらどう考えても反発の声の方が大きい。
学校の掃除にはこんなメリットがある
まず簡単に、学校で掃除をすることのメリットを挙げてみましょう。
1.掃除の習慣が身につく
ま、当たり前ですね。家では掃除をさせられない子だって結構いるでしょうし、となるとなおのこと学校の掃除の時間は貴重な経験となります。ここで「誰かがしてくれるならそれに越したことはないじゃん」と考えられる人とはずっと話が合わないでしょうね。
2.箒とちり取りの使い方を学ぶ
そのくらい知っとるわ!…ってことはないんですよ。たとえ家で掃除をする子でも、最近は箒とちり取りを使う機会はなかなかありません。そして使い慣れていない子に箒を持たせると、まあ不器用な掃き方をするものです。皆さんあまり意識していないと思いますが、箒とちり取りって運動神経や頭の良さにも関わってくるんですよ。
3.協調性の育成
掃除の時間は、「児童が教師の方を向かない授業」であり、ざっくり決められた役割の中で各々が微妙に調整しながら教室を綺麗にするというひとつの目的を目指す作業です。人が掃いたところは掃かなくて良いし、人がいい加減な掃き方をしていたら自分が掃かなくてはいけない。掃くところがなくなれば誰かがちり取りを持ってこなくてはいけない。そういう協調作業を学べる時間は、実は授業の中でもそう多くはありません。「小ライスくん、遊んでないで掃除しなさいよ!」なんてやり取りもまた一興。
4.情操教育
掃除をするということは、物や空間を慈しむことに他なりません。特に日本人のメンタリティーは、古代より「どんな物にでも、どこにでも、紙は宿る」というアニミズム的な価値観をベースにしています。これまた、これ以上の説明はできません。「非科学的だ」と言われたら、「ああ、そうですか」と返すだけ。
5.精神統一
お寺において、「十分綺麗なのになぜ毎日掃除をする必要があるのですか?」と聞くのはタブーです。そんなことを聞いたところで和尚様は「いいから黙ってやりなさい」と答えるだけでしょう。仏教における修行のベクトルは、「煩悩を取り払うべく、心を無にすること」に向いています。仏教徒でなければ関係ない?私はそうは考えていません。
私が小学校の頃のある担任は、ことあるごとに児童に「黙想」をさせました。座ったまま手を後ろに組んで1分間目を瞑る。これだけです。言わば簡易的な座禅であるわけですが、私は騒がしい教室の時間が1分間だけピタッと止まるこの感覚が妙に好きでした。
掃除というのも、ある種の軽いトランス状態を生み出す効果があり、精神をコントロールする能力を養えると実感しています。
掃除は教師の負担?いや、教育は教師の仕事だ
淳氏が、「学校に掃除の時間は要らない」とする根拠は先述の通り2点。ひとつは、「教師に余計な負担をかけさせるな」ということです。しかし、先述のように、教育上のメリットが認められるなら、それは「余計な負担」どころか、ドストライクの「教師の仕事」となります。教師の負担が大きすぎることが問題ならば、他のやり方で軽減させるべきでしょう。
話はちょっと逸れますが、「教師の負担」というフレーズはかなり恣意的に使われています。例えば、「学校を休む際はその旨を書いた連絡帳を友達に託す」という、これこそ何のためにあるのかサッパリ分からない慣習も、「朝の忙しい時に教師は電話に出られない」という奇天烈な理屈で肯定する人がいます。どう考えても連絡帳の受け渡しの方が煩わしいし、今ならメールやLINEなどいくらでも連絡方法はあります。
「自分がそうだからお前らだってそうだ」という幼稚な思考回路
淳氏のもう一つの根拠が「僕は掃除から何も学ばなかった」というものです。
「お前のことなど知らん!」
としか言いようがありません。それが一般的に通用するのであれば、この淳氏の見解に反発するツイッター民は異常な感覚の持ち主だということでしょうか?
「自分がそう」という根拠をもって「だから他人もそうだ」という結論に至るのは、幼稚で自己中心的で想像力に欠ける思考回路の持ち主だからです。この考え方を私に置き換えるなら、「ゴルフなんて面白くない。土地と資源の無駄だ。だからやめるべき」となるでしょう。「虫なんて気持ち悪いものを飼う必要はない。禁止しろ」となるでしょう。
田村淳は政治家にもなれない
私は、田村淳について、ドッキリで人を騙してばかりいる、芸人としてはちっとも面白くない人だと思ってましたし、今も思ってます。が、それとは別に、彼の合理的な考え方は、政治家には向いているのではないかと最近は思ってたんですよ。
でも、今回の「学校の掃除要らない」発言や、自民党総裁選における「石破支持」なんて姿を見ると、政治家としてもダメそうです。
若い世代が左側に寄ったり合理主義的な考え方を持つのは当たり前で、実に健全なことです。しかし齢を重ねていくにつれ、世の中は上っ面の合理主義では成り立たないことが分かってくるものです。私だって子供の頃は宗教や天皇なんてものを否定していましたが、これらの存在がいかに大事なものかが今では分かっています。特定の宗教が自分自身には必要がなくても、多くの人間には必要であることを理解するには想像力が必要です。
彼にはそういう想像力が足りません。
また、若者らしく、味の濃いものを嫌うようです。安倍さん→菅さんというラインは、彼のようなふんわり左側にいる若者にとってはクドいもので、中身がすっからかんだけど何となくそれっぽいことを言う石破さんは心地が良いのでしょう。最近の若者が、日本酒よりもハイボール、味の濃いビールよりドライ系を好む傾向と似ています。
46歳にもなって、若者の思考回路から脱却できない彼には、もう期待できないかなと思っています。
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