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「言葉は生き物」で日本語の誤用を許してはいけない

学術

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知識なんてなくてもネットで何でも出てくる←違うぞ

ボキャ貧は他人をイラつかせるだけではなく、本人も損をします。

ネットで何かを調べるにも頭の良し悪しが出ると言います。頭の悪い人は、Googleで何かを検索しようにもどういうキーワードで調べれば良いのか分からないなんてことがあるわけですよ。一方頭の良い人は適切なキーワードでスムーズに目的の情報にたどり着けます。

例えば買ってきた液晶モニターをパソコン本体に繋げようと思ったらケーブルを入れるところがない。そんな時にどんなキーワードを使うでしょうか。ボキャブラリーのない人、この場合だとコンピュータ関係に疎い人だと、「モニター」「ディスプレイ」と言う単語さえ知らない可能性があります。すると「テレビ 穴 線 パソコン」なんて単語で検索するかもしれませんね。これでも目的の情報にたどり着けるでしょうが、「モニター 入力端子 パソコン」とすればより早くより正確な情報が得られます。「冷蔵庫はなぜ冷える」でも答えは出てきますが「冷蔵庫 冷却原理」とした方がスマートです。

これらの例はまだ何とかなるケースですが、結局ほしい情報があってもたどり着けないケースだってあるわけです。そこで問われるのが語彙力(ボキャブラリー)であるわけです。

蝶とカマキリとミミズとダンゴムシ、これらをグループ分けするならダンゴムシが仲間外れになる。それは感覚としてボンヤリとは分かるけど、何がどう違うのか分からない。そんな子供に、「体が頭・胸・腹に分けられ、足が6本と羽を持つものを“昆虫”と言うんだ」と言う上位概念(言葉)を教えてやれば、子供はなぜダンゴムシが仲間でないのかが理解できます。さらにその上位概念である「節足動物」という括りで言えばダンゴムシも仲間だ、と教えれば概念のヒエラルキーも理解できるようになります。

「穴」にも「線」にもはいろんな穴があるけど、「端子」「ケーブル」というより下位の概念を知っていればより正確に情報の整理ができるわけです。

 

リテラシーとは何か

言葉を読み取り、言葉で出力する能力のことを「リテラシー」と言います。今ここで語っていることは、大雑把にいえばリテラシーのお話になります。

私のセガレくんが小学校だった頃に、「ドラえもんとはどんなお話か。俺が一切知らないと言う体で説明してみてくれ」と聞くと、「う~ん」と唸ったまま何も出てきません。「いや、一言も出てこうへんことはないやろ。海賊が冒険する話か?超人がプロレスする話なのか?」と聞くと、ようやく「ロボットの話」などと答えます。小学生とは言え、恐ろしい言語能力の低さですが、不憫にもセガレくんは、現国で学年最低点を獲ったこともある私の血を思いっきり引いていることが災いしているのです。ちなみに彼のIQは140オーバーで、要するに知性のクセが強い、わけです。

で、何が言いたいかと言いますとですね。リテラシーを「入力」「出力」に分けた場合、その間には「抽象化」という内部処理があるんですよ。例えばドラえもんの場合、テレビアニメ版だと決まったフォーマットがあります。いわゆるお約束。本当に幼少の子であればまず「お約束」が分かるかどうかがリテラシーの分かれ目になり、それが分かったらそれをどう言語化して説明できるかがリテラシーになります。

セガレくんの場合は、感覚としてお約束は分かってるんだけど、言葉で説明ができません。

「何をやってもダメなのび太という少年の人生を変えるために未来の子孫から送り込まれたロボットがドラえもん。ドラえもんは不思議な道具をいっぱい持っていてのび太を助けてくれるが、のび太はすぐ調子に乗っていつも最終的に失敗する」

普通の大人ができる模範解答としてはこうなるでしょう。これで「抽象化」と「言語出力」ができました。

セガレくんは私に何か聞きたいことがあっても、「ほら、アレあるやん。アレ何?なんて言うの、柔らかいやつ」と全く要領を得ません。

「さっぱり分からん。ババロアか?」「いや食べ物じゃなくて」「じゃあ母ちゃんの二の腕か」「いや、全然違う」「ほなスライム」「もういい!」

と逆切れしてしまいます。

 

彼にいつもする説教のパターンは、

「頭に浮かんでいることを人に説明できへんってもどかしいやろ。それだけやない。説明せなあかん時があるんやぞ。その時、言葉を知らんかったら説明できへん。黙り込んだり逆切れしても許してくれたり、『アレ』『ソレ』で分かってくれるのは身内だけや。国語はちゃんと勉強しとけ」

というものですが、それを言ってるのが学生時代に現国で赤点連発してた私なので、説得力がないのか、逆に説得力があるのか、よく分かりません。

 

言葉は知性を司る

言葉はただの伝達ツールであるだけではなく、先述のように思考そのものでもあります。SNSなどで論争になる話題にはつい熱を持って参加したくなりますが、残念ながらその多くは感覚的なもので、言葉と言う服を着た鳴き声を発しているに過ぎない、と私には映ります。

例えば、

選択的夫婦別姓論においては、その賛否が極めて感覚的なもので、私はどちらの陣営にも入りたくないのですよ。多くの人は「ではそもそも姓とは何か」「結婚とは何か」といった概念の整理をしようとしないからです。この極めてシンプルでかつ重要な作業を経ない限り、賛成であろうと反対であろうと空虚なのです。

この女系天皇容認論争も構図としては全く同じ。

こういった対立構造においては「建設的な議論」など絶対にできません。

問題を客観的に言葉(概念)として整理し、分からないことは「分からない」と言う謙虚な姿勢こそが知性だと私は思っております。

となると、言葉はその重要なツールであり、「言葉は生き物だから」と軽々しくその軽薄な変容を認めてはならんのですよ。

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