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「依存する」と「頼る」はどう違う?

医師白衣 心理学

この言葉はこういう使い分けをするとスッキリしますよ、というお話。

「依存する」と「頼る」がどう違うか、説明できるでしょうか?

もう一度言いますが、これは辞書の定義の話ではなく、こういう定義をするとスッキリするし、今の自分の人間関係の整理に役立つかもよって話です。

 

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「依存」とは

以下、私なりの解釈。

まず「依存する」ですが、あまり良い響きではありませんね。多くの場合、悪い意味で使われます。

しかし、「小さいうちの子供にとっての親」、「要介護老人にとっての介護者」、「飼い犬にとっての飼い主」これらは完全に依存状態にありますが、構造的に不可避な依存であり、決して悪いことではありません。

悪い意味での依存とは、本来それがなくても良いのに、なくてはならないものになってしまっている「依存」です。例えば、酒、ドラッグ、タバコ、ギャンブル等ですね。

 

男女関係における「依存」

すると難しいのが、恋愛関係です。

「あなたなしでは生きていけない」は愛の告白であると同時に、依存関係の宣言でもあります。この時点では悪いこととは言えません。私だって経験者です。その関係が相互になった場合に「恋愛が成就した」となるわけですよね。

このような恋愛における相互依存は誰にでもあることで、これを悪いと思う人はあまりいないでしょう。ところが、男女関係において「悪い依存」があるのもまた事実であり、これをどう区別しましょうか。

例えば、最近ツイッター(今は『X』なる名に変わってますが)でちょいちょい見るのが、ホストにフラれて暴れる女性の動画。これは「一方通行の悪い恋愛依存」の例ですね。「恋愛こそ人生のすべて」というタイプの脳を持った女性が仮想恋愛とリアルな恋愛の区別がつかなくなった結果、正体を失ってしまうという光景です。余談ですが、女性にこのタイプが多いのは、そもそも女性は脳に占める恋愛の比重が男性よりも大きく、視野狭窄に陥りやすいからでしょう。

また、稼いでこないのに金遣いが荒いクズ男、子供を虐待するクズ男と別れられない女も悪い依存と言えます。さらにこの男依存タイプの女性にも大きく2つのタイプに分けられて、依存の対象が「特定の男」と「誰でもいいからとにかく男」とがあります。

恋愛の依存の話になると、どうしてもその主体が女性になってしまいますね。

では話を主題に戻していきましょう。

 

「良い依存」と「悪い依存」の違いは何か

先に挙げた「悪い依存」の特徴とは何かというと、(たいていの場合、自分自身を含めて)「幸福の総量を減少させていく人間関係」のことだと言えそうです。

ストレス解消のために酒を飲むという場合、それは心に欠落した何を埋めるための「かりそめの幸福」ではありますが、酔いが醒めれば元通りです。アルコール依存症ともなると、アルコールがないと正気が保てない上に、時間と金と脳を少しずつ溶かしていくことになります。このアルコールの代わりを特定の人間が担うケースを「悪い依存」と言って良いでしょう。

であるなら「良い依存」は簡単で、「幸福の総量が増大していく人間関係」のことになります。その人と関わることによって何らかの良い変化(成長、学び)があるという関係ですね。1時間話せば1時間分、「良い自分」への変化をもたらしてくれる人間との関係ということになります。

そもそもこういうケースで「依存」という言葉を使うのは相応しくないかもしれませんが、「良い依存」と「悪い依存」は時にその線引が難しい場合があるので、便宜上こういう使い方をしています。

 

「構築」「生産」と「溶解」「消失」、全然違うよね

さて、ここで「良い依存」と「悪い依存」を言い換えてみましょう。

「良い依存」→「頼る」

自分のマイナスをプラスにしてくれる、あるいはプラスを増幅させてくれる関係。そこには創造性があり、成長がある。たいていの場合、自分以外にも良い影響を及ぼし、「幸福の総量を増大させる」。

「悪い依存」→「依存する」

自分のマイナスの部分をぼかしてくれる関係。根本解決にならないどころか、緩やかに悪化する。たいていの場合、自分だけではなく周りを巻き込んで「幸福の総量を減少させる」。

と、このように線引すれば分かりやすいのではないでしょうか。こういう整理ができてしまえば、あとは「頼る」を増やして「依存する」を減らすことによって、人生は充実するものになりそうです。

 

そもそも、社会的動物であり、現実として高度な社会を構築した上で個々の生活が成り立っている現代の人間にとって、広い意味での「依存」状態から離脱するというのは無理な話です。無人島でたった独り自給自足の生活をしているような人を除けば、ですが。

 

悪い依存のコンテンツ

さて、悪い依存と言いますと、かつて私はこのブログで一部の娯楽コンテンツの依存性について書いたことがあります。ストレートに言ってしまうと、いわゆるYouTuberではヒカキン、アニメでは『けものフレンズ』がその象徴だと。

ファンには怒られそうですが、私が見る限り、これらのコンテンツは何も得るものがありません。ヒカキンは普通のことを大声、顔芸、ドドン!という太鼓のSEとでかいテロップと共にやってるだけ。けもフレの方は擬人化された動物たちと触れ合うだけで特に何も起こりません。こういうコンテンツをいい大人が楽しむというのは、よほど精神的に余裕がないのだろう、と思います。これらのコンテンツ消費者は何も新しいものや刺激を求めているのではなく、昨日(前回)とほぼ同じだけど微妙に違うものを見聞きして、自分の生存確認をしているだけだと書きました。

『けもフレ』に至ってはファン自身が「IQが溶ける」と形容したように、ただ時間と人格をゆるゆるに溶かすだけで……とボロクソに書きそうになりますが、実はこの手のコンテンツも人間には必要だと思ってまして、例えば海を映しているだけのBGVだって何も考えずにボーっと見ることによって癒しになったりするんですよね。

問題は、他にどんなものを観ているのか、です。それしか観ていないというのであれば、結構悪性の依存と言えるかもしれませんね。

 

愛犬家に見る悪い依存

依存の話ついでに、普段『犬小屋』ブログで書いていることを改めてここで書いておきます。

「犬を飼う」という行為は一見文化的で暖かい光景に見えます。しかしそこにあるのは圧倒的な闇!

私から見て、まともに飼い犬との関係を築けているのは2割もいません。

犬を飼い始める手段と言えば、主に「商取引」です。捨て犬を拾う、保健所(あるいは保護団体)から譲渡される、個人間で譲渡される、こういった例外以外は基本的にお金を出して生体を飼うことになります。

さて、その多くの飼い主たちがやっていることと言えば、ペットショップで値札の貼られた子犬たちの中から「運命を感じた♪」というフレーズを添えて金で引き取っていき、欲しそうにしているからと言ってガバガバ食事を与えて太らせ、肥満で病気になったら「私が世話してあげないと」と健気に看病し、よその人や犬に攻撃的になったら「この子は私でないと理解してあげられない」と………。

分かりますか?

男女の仲でもよくある「共依存」の道具になってるんです。こういう愚かな飼い主たちにとって、犬は「生きたぬいぐるみ」なんですよ。

「私がいないとこの子は」というフレーズは、これ以上手っ取り早いものがないくらい(上っ面の)アイデンティティー=自分の存在意義を満たしてくれます。

いやいや、そもそもお前らみたいな連中がいなけりゃ無茶苦茶な方法で繁殖されて生まれてこなくて済んだんだよ……私が犬小屋ブログで主張してるのはこのようなことです。

 

いろいろ話が飛びましたが、今回の話と関連するものとして、次は「相性論」を語りたいと思います。

 

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