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「自分」を主語にして考えれば、悩みごとの8割はなくなる。

悩む女性 心理学

からの続き。

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「悩む」と「考える」の違い

 

『心配事の9割は起こらない』という本がありまして、まあどれほど売れたのかは知りませんが、私は読んでいません。武田鉄矢か誰かが解説してたのを聴いたことがあるだけです。その聴いた内容もあまり憶えてないですが、まあタイトル通りでしょう。で、その主旨がタイトル通りだとして、賢い人って結構同じ考え方をしているものです。

当ブログでもかつて「悩むのは好きだけど考えるのは嫌いな人」と題して短い投稿をしたことがあります。

要するに、「あー、困った困った、どうしようかしら」とは言うのに、「じゃあこうしよう」という解決策の模索はしない人のことです。

私の実体験に基づいた例を挙げると、ある商売をする人がいました。その商売にはいろいろな法的規制があり、その規制が商売の自由度を下げていました。そのことが原因で売り上げが伸び悩みます。そして決算時には毎度同じ会話が繰り広げられます。

「なあ、小ライス、こんな法律おかしいだろ!これでは稼ぎようがない!」

「と、毎度同じことを言ってもそれは解決法にはならない。この規制の下で稼げる体制を作るか、政治家になって法律を変えるか、この2つしか選択肢はない」

相手は不平不満の吐露、私が解決法の模索をしているというやり取りです。

悩む女性

「自分」を主語にして考えなければ意味はない

このやり取りから何を還元すべきか。お相手は「法律ガー!」「政治ガー!」「社会ガー!」と、ここにはいない、そして自分にはコントロールもできない第三者を主語として語っているのに対し、私は「ではこの条件下で【自分は】何ができるのか」と、自分を主語にして模索をしているわけです。

他の、例えば政治や社会問題についての議論にしたって、そこで費やされる時間のうち8割は「この法律が悪い」「この政治家は問題がある」「現状はこうなっている」という【判断材料の羅列】とそれに伴う【感情の共鳴】でしかありません。

政治を変えるにはメディアと教育の変革が必要だ!

だよねー!

は~、今日も良い議論をした。

これでは議論をする意味も極めて薄弱になってしまいます。では意味を作り出すにはどうすれば良いかと言うと、「じゃあ我々一人ひとりは何をすれば良いだろうか」という「自分」への【主語変換】という作業が必要なのです。

この場合、私の話をしてしまうと、「良いと思った意見はどんどんイイネRTする」「そのためにはフォロワーを増やす」「ブログを書く」と言った作業になるのですが、大抵の人はこの結論が地味かつ地道過ぎて興覚めしてしまうようです。しかし、例えその結論が地味で地道であっても、それが論理的帰結なら受け入れざるを得ないし、それが「自分にできること」であると明確になった以上、微力ではあっても「力」ではあるわけです。

 

一人称主語を使わないのは責任回避のため

話が逸れました。

当ブログには『犬小屋』という姉妹ブログがあり、そこではモラルや知識の足りない飼い主およびドッグトレーナーなんかを糾弾しております。そのひとつの典型例として、「犬の肥満」が挙げられます。犬と言うのは自分で痛い痒いも言えないため、身体に不具合があっても人間と違ってそれがなかなか発覚しにくいわけですよ。人間でも「キリキリ痛いですか?シクシク痛いですか?」と聞かれて「分かるかー!」となるのに、頭が痛いのか、お腹が痛いのか、だるいのか、眩暈がするのか、犬だとそんな基本的な情報すらなかなか得ることができません。肥満は言うまでもなくそういう身体の不具合を可能性を大きく高めるファクターであり、あってはならないことなのですが、「共感力」の高い飼い主は、ほしがる犬の顔を見ては食事を多めに、そして食事が終われば大量のおやつを与えて、太らせてしまいます。それを指摘すると9割以上の飼い主はこう答えます。「この子、いくらでも食べちゃうんです」と。まるで犬が自分で冷蔵庫を開けて魚肉ソーセージを取り出したり、カップヌードルにお湯を入れたりするかのような言い訳ですが、これぞ恣意的に「主語を第三者」にする阿呆ですね。食べさせているのは「自分」でしょうが。

あるいは……

学校からの帰宅が遅れた子供に遅くなった理由を問いただします。
「だって〇〇ちゃんが違う道から帰ろうって……」
と、第三者の主語を持ち出して言い訳をします。つまり、「自分を主語にして語らない」と言うのは責任回避であったり、自分が傷つかないための自己防衛であったりする、言わば幼稚で卑怯な思考様式なのです。

 

子供だから幼稚?

いえいえ、脱マスク解禁直前、テレビで「あなたはいつマスクを外しますか?」という街中のインタビューをどの局でもやってましたね。その時の回答の典型例が「皆が外せば外します」です。もちろん聞いた相手は大人。それでも、「あなた」(=自分)を主語に聞いているのに、その主語を「皆」に変換して答えてしまう。

これは「和を以て貴しとなす」=皆と合わせることが善であり、「滅私」=“私”を押し出すのは悪という価値観を根底に持った日本人特有の思考回路なのでしょう。これは秩序を作り、維持するための集団としての生存戦略であり、個々人は「滅私」をすることで個々の生存戦略を図っているわけです。

こういう出る杭は打たれる形の同調圧力がベースにある中で、元々自己肯定感の低い人は余計に「自分」を出しにくくなります(※自己肯定感が低すぎるあまりに歪な形で「自分」をやたら押し出すタイプの人もいます)。

 

 

【自分には】何ができるかを考える

さて、「自分を主語に」という話に戻します。

頭の回転の悪い人は、自分がコントロールできない他人を持ち出して「悩み」ます。

例えば会社で嫌な上司がいてそれがストレスになっているとします。酒を飲むたびついついその上司に対する愚痴が口からこぼれます。さて、愚痴をこぼして状況が良くなるでしょうか?なりませんね。その時だけ溜飲が下がるだけで、明日になればまた同じ状況が待っているのです。では上司を変えることはできるでしょうか?無理ですよね。

 

だったら、その主語は「自分」に置き換えるべきです。なんせあなたは1人分の肉体の完全な支配権を持っているのですから、その体をどう使おうがあなたの自由なのですよ。

例えば、その上司のことを心の中では「人間扱いしない」なんてこともできます。マリオをやってたらノコノコやクリボーみたいな中途半端な知性しか持たない障害物が出てきますが、それらと同じように扱って「こういう障害物の出てくるゲームなのだ」と言い聞かせます。だとしたら、それに対し愚痴をこぼしても仕方がないと悟ることができます。

あるいは、その嫌いな上司に対してあえて明るく爽やかに振る舞ってみます。もちろん腹の中は別で。すると、相手も態度を変えてくることが結構あります。これも恋愛シミュレーションなんかと同じで、「自分のことを好きにさせるよう相手をコントロールするゲーム」だと思えば良いのです。つまり、相手を変えたいなら結局まずは自分を変えないといけないのです。

いずれもできないということであれば、会社を辞めるという選択肢もありますよね。

 

まだまだ続きます。

 

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