国葬問題の本質
国葬について、テレビで有識者が話したり、私自身スペースで議論したりしてるんですが、まあスッキリしないのが、皆、「国葬開催の是非=安倍さんの評価」になっちゃってるってとこなんですよ。
賛成派は「安倍さんの功績は偉大だ。経済を立て直し、地球儀外交で~~なので国葬は当たり前だ」
反対派は「モリトモガーーだから国葬なんてもってのほか」
いやいや、いざ国葬しようかとなってから安倍さんの8年半の評価を始めるんですか?そんなことしてていつになったら国葬ができるんですか?そして、誰の国葬なら文句なしにできるんですか?
こんなの意味のない議論なのですよ。どうやったって答えなんて出ないんですから。
そもそも有識者ですら分別がついていないようですが、「国葬開催の是非」と「貴方は国葬に弔問したいか/安倍さんを追悼する気持ちがあるか」という話は別問題なのです。
なのにテレビを観ていたら、小倉智昭氏なんかが「国葬の是非」を聞かれてるのに、安倍批判を始めるというマヌケな光景が目に入ってくるわけですよ。
個人については「弔問するかどうか」が問題。それを集積してようやく「国葬に値するかどうか」という話になるわけです。個人が「国葬開催の是非」を語りたいなら、それは政治行政の仕組みにおける国葬の扱いについて言及しなくてはならないわけで、安倍さんの評価を始めてしまったら、それは問題の本質を分かっていない証拠です。
国葬にするかどうかは単に規模の問題
天皇以外の人間の国葬はどういう基準で開催するか。これって基本的には定量化できない問題であって、そこに無理やりにでも客観的な数字を作り出すために、私であれば「各主要国大使館に弔問の意思はあるかどうかを聞くのはどうか」と提案したわけです。イエスかノーなら答えは簡単だし、それを集計すれば定量化できるわけですよ。
先日のブログで私は、「国葬は、海外からの弔問需要が一定数以上あればすれば良いし、そうでないならする必要はない」という主張をしております。つまり、私にとって国葬とは単に弔問客の数=規模の問題でしかないわけです。それ以外の価値観を汲み入れてしまうと、ものすごく話がややこしくなるわけですよ。それこそ、安倍さんの政治家としての評価とか、選挙中に銃撃されたこととか。
一般人であっても、弔問客の数の見込みによって葬儀の規模を変えるのは当たり前で、でっかい葬儀場を使って弔問客数人とかだったらみっともないでしょう。逆に相当な社会的地位のある人がベルコの一番小さい祭場と言うのもおかしい。
この弔問客の度合いに合わせて規模を決めるという考え方こそがスッキリするのであって、さらに海外からの弔問が多そうなら国葬にすれば良い。
予算が問題?はぁ!?
ここで予算を問題にして、税金を使うのはおかしいと言う人がいますが、これだけの規模の葬儀を明恵夫人の個人資産から捻出しろと言うのでしょうか。「自民党でやれ」とか「有志が金を出し合ってやれ」と言うのも一見最もらしいのですが、安倍さんは自民党のトップというだけでなく、日本と言う国家の首脳だったからここまで弔問したいという人がいるのですよ。また、そういう人達が勘違いしやすいのは、国葬は「安倍さんのため」ではなく「追悼したい人のため」にするのです。もちろん、首相経験者だからと言って一人ひとり国葬にしていたら大変です。森〇朗だの鳩〇由紀夫だのを国葬になんて話にはならないでしょうし。まあ、それもこれも含めて、何らかの形で民意を問えば話が早いのです。(閣議決定も、非常に間接的ではあるけど民意です)
予算額の16億円なんてね、半世紀に一度も行われない国葬の頻度を考えたらタダみたいなものですよ。エリザベス女王でも13億円なのに!って、イギリスの人口は日本の半分ですからね?この16億円が高いというのも、最初2億だか3億だかの数字を出してしまったから何となく高い気がするだけであって、最初に100億って言っておけば安く見えてきます。一般国民の数字の感覚なんてそんなものですよ。これについては辛坊治郎氏も「総理周辺があまりにポンコツ。最初に安い数字を出すなど戦略上あってはいけない」という旨主張されていますが、全くその通りだと思います。
手続き論
先述の通り、政治家としての評価なんて点数が付けられるものではないし、誰が採点するんだって話にもなります。死に方が問題になるのなら、転倒して頭打って死んだら国葬にはならない?心筋梗塞で倒れたら?殺されたから?だったら愛人に殺されたらどうですか?選挙中だから?じゃあ投開票の次の日に銃撃で殺されたらやはり国葬にはならないのでしょうか?
……なんてことを考え始めたら、どの道基準なんて作れるはずがないのですから、「皆に聞く」しかないわけです。で、その聞き方には、
「閣僚に聞く」(閣議決定)
「国会議員全体に聞く」(国会承認)
拙案の「各国大使館に聞く」
などがあるわけです。
「国葬」を定義し、ルールを作ろう
俺は安倍さんでも泉さんでも志位さんでも山本太郎さんでもイチローでも国葬は反対。
人の命や人生に成績をつけて国葬に値するか否かジャッジすること自体が気味悪い。そもそも価値観が多様化する中で成績をつけるための基準なんて設けようがない。
ましてや、時の政権が独断で決めるなんて論外。
— せやろがいおじさん (@emorikousuke) September 26, 2022
「国葬」はその言葉がむやみにいろんな価値観を乗っけられてるから話がややこしくなるのです。このせやろがいおじさんのように、「人の命や人生に成績をつけて」というニュアンスを読み取ってしまう人だって出てくるわけですよ。
私自身、「国葬」という行事にモヤモヤするものがあります。それでもとりあえず賛成するのは吉田茂という前例があるからです。その前例に倣って、やるならやるでそれなりのルールを決めよう、やらないなら「我が国では天皇以外の国葬はしない」と宣言してしまえ、というのが私の根本的な考え方です。
やるとした場合、「海外からの弔問要望が大変多いので」を理由に、それを定量化した上でやればいいのであって、岸田さんが安倍さんを評価するようなことは絶対やってはいけません。時の総理大臣に評価されることが基準になってしまうのか、となってしまうからです。
何度も申し上げますが、「国葬」を「国家規模のお葬式」とシンプルに定義した上で、弔問需要を何らかの形で計れば、あとは国会承認でも閣議決定でも構わないと私は思います。閣議決定のみだと、例えば今回安倍さんがあんな形で亡くなったとしても、今の政権がもし立憲民主党だと行われなかったでしょう。亡くなった人とその時の政権の相性で、国葬をやるかやらないかを決めてしまうと、その後積み重なった歴史を振り返ると「この人が国葬で、なんでこの人は国葬じゃないの?」となってしまい、それこそ国葬の普遍的基準が曖昧になってしまいます。
安倍さん襲撃は「民主主義への挑発」なのか
ついでに書いておきます。
あの安倍さん銃撃はしばしば「民主主義への攻撃」と言われますが、いや、ちょっと待ってくれ、と。
「テロ」を「暴力の恐怖による社会の現状変更」と定義するなら、たしかにあの銃撃によってマスコミは統一教会一色になったので、「テロ」とは言えるかもしれませんし、そのテロは大成功だったと言えます。しかし、このテロは、山上容疑者が世間の目をカルト宗教に向けたいというのが目的であって、別に安倍さんの政敵勢力だったわけではありません。単に、安倍さんという有名人を殺してバズらせて問題提起したかっただけであって、民主主義の結果が気に入らないから暴力でどうにかするという「政治テロ」とは違うものです。つまり、ただの「インフルエンサー殺人」なわけですよ。
それを「民主主義への挑発行為」のように言うのは、岸田首相が言えばそれは「岸田政権および自民党への同情票獲得」が目的だろうし、左派が言えば「いや、安倍さんのことは嫌いでも我々はこういうことはしない」という清廉潔白アピールでしょう。
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