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【統一教会問題】太田光を叩くバカ

宗教

爆笑問題・太田光氏がまた炎上しています。その容疑……じゃなくて対象となる発言は「旧統一教会を擁護している」とのこと。

問題となっているのは彼のレギュラー番組『サンデー・ジャポン』内での旧統一教会についての発言ですが、ツイッターでは、#太田光をテレビに出すなというハッシュタグで叩かれまくりました。

私も観ましたが、彼の主張は概ね次の通り。

(1)あっち(旧統一教会含むカルト宗教)から見れば、こちらはサタンである。
(2)こちらは「救出したい」と思っているが、向こうだって「救出したい」と思ってる。
(3)こちら側が救出する際に、監禁したりするケースがあるという問題もある。
(4)統一教会を反社会的組織として扱うのであれば、純粋に信仰している信徒たちのことは「反社組織の構成員」として扱うということか。

 

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「善」「正義」はどこまで行っても相対的価値観

(1)(2)は同質の問題で、哲学的観点が必要です。「正義は相対的にしか存在し得ない」ということです。我々がどれほど旧統一教会を悪と定義しても、それは感覚を共有している我々の中での定義であって、それを【普遍的な悪】と規定し、保証してくれる理念や存在などありません。つまり、客観的に見れば、「我々が善であいつらは悪だ」と向こうが同じことを言えば、その意見は全く対等に扱われなくてはいけないのです。ただし、この世はいろんな意味で民主社会であり、強いのは圧倒的に一般大衆の方なんですけどね。

 

「法律」と「正義」どちらが優先?

「統一教会って悪い組織なんですか?」

「当然だろ、違法行為をしてるんだから」

「こちら側が『救出』目的で信者を監禁したりするのも犯罪ですよね?」

「悪から遠ざけるためにやってるんだからしょうがないだろ」

直接聞いた訳ではありませんが、誰かがどこかで実際に交わしてそうな会話ですよね。

そしてこうやって抽出すれば、どこに問題があるか分かりやすくなると思います。

オレンジ色の側、つまりカルト宗教糾弾派は、時と場合によって、主張の根拠として「法律」と「正義」を使い分けているわけですよ。

身体拘束とか監禁という行為は基本的に人権侵害であり、合法的に認められる場合でもかなりセンシティブに扱われます。例えば、心神耗弱で危険な行為をする人だとか、重度の認知症を患いながら入院している高齢者だとかね。では、カルト宗教にハマる家族を監禁するのはどうかと言うと、私の知る限り、違法行為です。するとカルト糾弾派は「正義」というあやふやな物差しを持ち出すわけですよ。

言っておきますが、私だって家族がカルト宗教にハマったのなら、違法覚悟で同じことをやる可能性はありますよ。

しかし、そこが問題ではないのです。詳しくは後述。

 

カルト宗教を「指定暴力団」と同等の扱いに?

個人的にやるべきではないと思いますが、取り締まりたいなら「悪の組織」を明文化して「指定暴力団」みたいに法に基づいた取り締まりをすれば良いのではないですか?今テレビで騒がれてるのって、あれ(主として)自民党という一政治組織の内側の話でしかなくて、政治問題とすら言えない訳ですよ。この問題について、岸田さんは「自民党総裁」という立場であって、「総理大臣」としては(多分)何も言っていないのです。

 

江川紹子氏の見解

江川紹子氏についてはですね、オウム真理教とも勇敢に戦ったジャーナリストとして、一定の敬意は持っております。しかし、総合的な知性を評価すると、彼女はいかにも幼い。意識高い系女子高生がそのまま大人になっちゃった感じで。

爆笑問題・太田氏の発言は、問題を俯瞰で見たらこうなるよ、という視点の提示でしかないわけですが、それが自身がやっているカルト糾弾活動に水を差されたと思い込んで「教団の代弁者」呼ばわりしてしまうわけです。さらに番組運営の問題にまで言及し、「もう話題を取り上げるな」と。これって言論弾圧であり、めちゃくちゃ見当違いの怖いこと言ってるんですが、彼女は分からないんですよね。

「自分は常に正義」これほど視野狭窄サヨクの標本として見事な人物もいません。「人は正義に立つとどんな残酷なことでもする」という司馬遼太郎の言葉を噛みしめて頂きたいものです。

 

有田芳生氏の見解

えーっと、結構どうでも良いけど、最近統一教会のことでまたテレビに出始めた有田芳生氏の発言にも触れておきましょうか。

【現場】を知ってるって人がやたら偉そうにするのは、コロナ禍と同じですね。そして有田氏にはデーブ・スペクター氏が強力に援護しています。

あなた方が「家族を脱退させたい側」に共感し、寄り添うのは勝手だけど、じゃあ純粋に統一教会を信仰している何の罪も犯していない清廉な信者には誰が寄り添うのでしょうか?

「“拉致”“監禁”は教会側が使う言葉だ」ってアホでしょうか。「拉致」も「監禁」も、統一教会が生まれるずっと前からあるれっきとした日本語で、「拉致」は「むりやり連れて行くこと」、「監禁」は「人を一定の場所に閉じ込めて、行動の自由を奪うこと」と辞書にも載ってますよ。同じ行為でもやる人によって言葉を変えるなんてことが許されて良いはずがありません。

 

「当たり前だろ」という暴論

彼らがジャーナリストとして様々な真実を詳らかにしてくれるのであれば、そこには感謝の念と敬意を抱きますが、このお二人は正義が暴走してトンチンカンなことを言い始めているのです。

この両者の意見って、ギュッとまとめたら「統一教会が悪いのは当たり前ではないか」でしかないのですよ。

「〇〇が△△であるのは当たり前」と言うのは、元々その意見に共感している者同士にしか通用しません。ま、それこそ当たり前ですね。

例えば、私が無宗教だとして(無宗教というわけでもないんですが)、
「墓なんて存在がそもそも非科学。墓建てたり、その墓に参ったりするのは情弱のバカ。当たり前だろ」
と主張したらどうでしょうか。

統一教会が霊感商法で悪い?科学的根拠がない?人を騙してる?
じゃあ戒名つけるのに100万取る仏教だって反社会的組織指定だろ。
親が子に「そんなことしたらバチがあたる」と教えるのも悪だな。
神社で200円のお御籤買って「騙された!クーリングオフ!!」って皆でやるか?
朝の情報番組で科学的根拠のない占いやるのも取り締まれよ。

と言う人がいたらどう反論しますか?

 

法治国家はカルト宗教をどう扱うべきか

法治国家でやらなければならないのは、「悪い」を規定し、「〇〇は、カクカクシカジカなので悪い」という明文化に他ならないのです。そして、その明文化された文言が法律なのです。

まとめると、

問題の本質を浮き彫りにする抽象化 ⇒ それを最小限の言葉でまとめて明文化 ⇒ さらに国家権力の裏付けを与えて法制化

このステップを踏むことこそが「当たり前」なのですが、デーブ・スペクターもそれが理解できないようで、何かと言うと「太田さんは知らなすぎる」「現場を知らないから擁護する」などと寝言をほざく訳ですよ。

今マスコミがやっている統一教会叩きは、文字通り「統一教会を叩く」ことであって、普遍性がありません。同じような別のカルト宗教が話題になったら、また同じパターンで叩く必要があるわけです。六法のどこかに「統一教会はダメー!」とでも書きますか?そんなの法律になり得ませんね?主語が「統一教会は」だからできないのです。それを「(統一教会のような)カルト宗教」を定義し、一般論化するのが第一歩なのですが、国会議員(立法府ってことね)をやってたくせに有田氏もそこは語りませんね。

このやり方が恐ろしいのは、あまりに論理が雑なので、恣意的にいくらでも「悪」を作り出してしまうことができるという点なのですよ。

ごく「当たり前」の仏教において僧侶からよく聞かれる話です。

「お布施の額はご遺族が故人を思うお気持ちです」

これ、脅迫じゃないのか!?

「戒名とはあの世で名乗る名前です」

「あの世」の存在なんていつ証明されたんだ!?騙されたーっ!!

と言えば、これに誰か論理的に反論することができますか?できないんですよ。

でももし本気でこのことを主張したとしたら、そいつはアタ〇カ扱いされるわけです。それは、「当たり前」の仏教が市民権を得ているから、という理由のみです。

「お布施の額がお気持ち次第なのは当たり前だ」
「故人に戒名をつけるのは当たり前だ」

 

宗教と人権の本質

さて、お分かり頂けるでしょうか。今マスコミがやっている統一教会叩きは、「宗教の本質」「人権の本質」を一切無視して進められているものです。

「宗教」とは一体何かと言えば、その人の最も根本的な行動原理を司る価値観と法のことです。「最も根本的」というところが肝でして、最も根本的である以上、それは常識的価値観(平たく言えば、自分以外の多数派の考え方)や法律よりも上位に来る訳です。我々が市民権を与えている宗教は、それが合法である、あるいは他人に迷惑をかけないというだけのことであって、その宗教を理解したことにはなりません。たまたま、概ね利害が一致しているから認めていることになっているのです。

しかし、その利害が一致しないケースも当然あるわけで、それが例えばオウム真理教だったりするわけですよ。オウム信者からすれば、「ポア」は「人々を苦痛から解放させる救いの手段」ですが、我々信者でない一般人にそんなことが理解できるはずもなく、もちろん大迷惑でもあり、とんでもない違法行為です。

宗教の厄介なところはまさにここでして、そもそも違う論理体系の価値観を持つ集団なので、外から何を言っても理屈としては信者の頭には入っていかないのです。そしてこの関係は対称的で相対的です。つまり、人を殺すことが「違法」であることは法律が根拠となっており、その法律は国家権力による裏付けがあるので分かりやすいのですが、人を殺すことを「悪」とする根拠はどこにもありません。皆さん、気づいてないでしょ?こどもに「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれて明確に返答できる人がどれほどいますか?それこそ「そんなの当たり前だろ!」と怒鳴って終わり、ではないですか?これ、ある意味において、我々は常識にマインドコントロールされているとも言えるわけです。

ほら、今眉毛がピクっとなりましたね?「こいつは太田よりタチが悪い」そう思いましたね?それはあなたが、「倫理」とか「宗教」というものを根本から考えたことがないからなんですよ。

「人権」も同様。「私は家族を“保護”しているのであって、“拉致”などしていない!」というのは、家族目線の話です。客観的に見れば、その人の自由を奪っているのですから、犯罪であり人権侵害なのですよ。もし私の家族がカルト宗教に入信してしまったら?そりゃ拉致も監禁もするかもしれませんね。しかし、ここに出てきた頭の悪い登場人物たちとは違って、私はそれが「自分勝手な犯罪行為」と自認した上でやりますよ。信教や行動について言わば私刑として制限しているわけですから。

 

解散命令って本当に出せるの?

オウムの場合はかなり分かりやすいケースで、全く無関係な人間を巻き込む無差別大量殺人を行った組織として裁判所による「解散命令」が出たわけですが、統一教会となると難しいかもしれませんよ。なんせ、自分の意思で入信したり、壺を買ったり、お布施をしたりした人以外にこれといって迷惑をかけていませんから。つまるところ、元々科学的根拠のない話(宗教は全てそうですが)を自分の頭で信じて金を出し、それを後から後悔して「騙された!」と消費者センターに言ってくるわけでして。いやいや、貴重な社会リソースを浪費するアンタらは被害者なのか加害者なのかどっちやねん、と。議員や自治体の首長に「解散命令請求を出せ」といろんな人が声高に言っていますが、棄却されたら今度は逆にお墨付きになっちゃいますよ?

「解散命令を出せ」派の本村弁護士なんぞ、「統一教会信者の勧誘の仕方に違法性が認められた」ことを「統一教会は布教活動そのものが違法」と公共の電波で言い換えちゃって訴えられていますが、「自分が正義だから」と言う理由で言葉をないがしろにするヤツってダメなんですよ。なんか頭の悪い人ほど彼みたいな人間を英雄視しているようですが、難しい問題を腰を据えて、腹を括って、言葉や手続きや論理を重視して進めなければいけないのです。

 

寝ます。

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