私は常にひとりである
私は「特定の集団に帰属する」と言うのがとにかく嫌なんです。
私のこの性格は少し病的なところがあって、例えばMMORPGなんかやってると「クラン」みたいな仕組みがありますが(ドラクエXで言う「チーム」)、ああいうのにすら入りたくないというレベルです。クランに入らなければ楽しめないプレイもあるので、私にはMMOは楽しめないネットゲームってことになります。
以前にも書きましたが、私のこの感覚は、子供の頃ひどいイジメに遭ったとかそういうのが原因ではなく、家庭の事情で多種多様な大人たちとの交流があった子供時代を過ごしたため、同世代の子供がそれこそ子供にしか見えず、常に客観的に観察する癖がついてしまったためだと思います。さらにその分析をフィードバックすると、大人だって基本的には同じだということにも気づきます。
先の投稿で「人間の行動には分かりやすいパターンがある」ということを書きましたが、それを発見したのも子供の頃でした。
さて、
以前この記事において、「誰かと仲良くする快感と、誰かを排除する快感は同質のものである」と私は主張しました。それこそ、私が子供の頃から感じていたことで、それが何十年も経ってから「オキシトシン」という一種の脳内麻薬が発見され、その快感のメカニズムが科学的に判明した、という形です。
なぜ徒党を組むのが嫌なのか
ではなぜ、私はそれほど集団に属することが嫌なんでしょうか。
例えば、水と油は混ざり合いません。これは化学的には「表面張力」で説明できるのですが、要するに水は水同士で非常に仲が良いため、油と言う異質な物質を弾き飛ばしてしまうわけです。つまり、水が仲良くすることによって油がその仲間に入れない、ということです。
水が水同士で仲良くすることに化学以上の理屈は要りません。「だって水同士じゃないか」で良いんです。それぞれの水分子の思想が合うとか、感覚を共有できるとか、そんなことではありません。
これが人間社会にもあるんです。
私だって人と仲良くはなるし、SNSで馴れ合いも楽しんではいますが、それは結果であって原因ではありません。私やその相手が「仲間である」とか「友達である」と認定したわけではないのです。
じゃあ私以外の人達はそれをやっているのかと言うと、別にやってませんよね。でもそれとは意識せずに「仲間」を作ってるんです。
その絶好の事例こそが、これなんです。
ここで私への誹謗中傷ツイートしたAさんには、そのお友達が同調のコメントが並んでいます。もちろん、当時何があったか、その相手が誰かは知らずにです。
例えば、街を歩いていたら、自分の友達と誰かがケンカをしていたとします。この時に、無条件に友達に加勢するのが人間なんですよ。
これが「だって仲間だろ!」という【ワンピース思考】であり、それを増幅していくと「暴走族」になります。
集団に属して個を喪失する
さらにこれがどういうことかと掘り下げていくと、集団を形成すると個人の個性や独自の思想・感覚は喪失してしまうことになるよってことなんです。
先日配信された岡田斗司夫ゼミでマイケル・サンデル著『実力も運のうち~能力主義は正義か?』という書籍が紹介されていました。内容としては、「努力するのも才能のひとつで、その才能は生まれ持ったもの。結局能力主義は格差を生む」というようなことが書いてあるらしいです。私は読んでないけど。
その解説の脈絡で、岡田氏は「官僚は上級国民たる自分たちの集団の利益になることしかしない。それが彼らにとって倫理的な行動である」という指摘をしています。官僚にとっての「集団」は日本人ではなく官僚組織であり、彼らが省庁の利益になることを行動原理としている以上、彼らの仕事が国民の利益になるわけがない、というような主旨です。
一応動画を貼りつけておきますが、めっちゃ長い上に、この記事とは趣旨がかなり違うのでご興味のある方だけどうぞ。
つまりは、本来その人には個人の思想も思考もあったはずなのに、特定の集団に属することでその集団の利益を優先するようになり、個が埋没してしまうわけですよ。イワシは群れを成して大きな1匹の魚のように振る舞いますが、その時1匹1匹のイワシに独自の思想や判断力というものはないのと同様でしょう。
言いたいことを言うために作ったアカウント
私のツイッターアカウント「小ライス」は、本来サブ垢でした。1つ目にはホビー系のアカウントを持ってたんですが、そこで社会問題なんかを議論するとホビークラスタとして私をフォローしている人、リストに入れてくれている人に迷惑だし、何よりホビーで繋がっているFFさんの中に分断が生じてしまいます。
そこで作ったのがこの小ライスのアカウントで、こちらでは「誰にも気を遣わず言いたいことを言う」と決めています。仲の良い人もたくさんいますが、それは結果そうなっているだけで、「仲間」ではありません。それなりに馴れ合いも楽しんでいますが、自分の主張を抑えるくらいならそんな馴れ合い関係などいつどうなっても構いません。
そもそもこのブログは、ほんわかした日記のようなものではなく、政治や社会問題、哲学的問題、差別やジェンダー論などが主体です。読んでいて愉快になるようなものはほとんど書いていません。とりわけ、ジェンダー論や差別論なんかはある種の人達の琴線に触れるし、当事者だっていらっしゃる。キラキラネームを斬れば、読んでる当人やそのお子さんがまさにキラキラネームってこともあるでしょう。
それでも一切気を遣わずに書くというのが当ブログであり、小ライスというアカウントであるわけです。
そう決めてしまえば身軽ですよ。最初から「仲間」なんていないわけでして。
フォロワーさんが全員私のフォローを外したところでゼロになるだけで、マイナスになることはありませんし、お金もかかりません。
先の投稿で書いた、メーリングリストのログ公開設定に拘ったのも、「来る者拒まず、去る者追わず」のポリシーからです。とにかく自由に、闊達に、議論できる場と言うのが大事で、たとえ議論で不快感を感じてその場を去る者がいたとしても、来る者の数以上に出ていくことはないのです。
それを「来る者」に過度な価値観を乗っけて執着するのは愚かです。似たようなことは大昔、釈迦という人も説いています。
「仲間」なんていなければ、裏切られる心配も皆無です。
続きます。多分。
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