からの続き。
「自分のできること」を合格基準に設定する小賢しさ
ここからが問題の根幹部分です。
「改めて、柴犬を飼ってはいけない」
でも同様の指摘をしておりますが、自分のしつけを正当化するために、“合格基準”を都合よく変えてしまうしつけ論者がいるのです。
自分の犬のちゃんとしているところは「自分のしつけの成果」であり、そうでないところは「先天的要因」「これが個性」「これが本来の習性」なんてことを安易に言ってしまうのです。つまり、自分が出来なかったことは「人間のしつけの及ばない話で仕方のないこと」にしてしまうわけですよ。本当に自己中心的で身勝手な思考回路です。
あるいは、犬に「こうなってほしい」と目指してしつけを続けたものの、現実と理想は違うものになった、その現実と理想のギャップをポジティブな印象の言葉で埋めようとします。その言葉は論理としてはほとんど意味がなく、ただのポエムでしかないわけですよ。
問題は【犬にとって】のはず
飼い主さんはとても繊細でやさしい方で
犬のこと、本当にとても可愛がっていましたよ
これらのフレーズが大きな問題ですね。私が批判する間違った犬のしつけ論はまさにここにあります。上っ面のイメージと飼い主の想い、これがデタラメしつけ論の原理になってしまっているんです。
犬にとって必要なのは、飼い主の繊細さや優しさではありません。飼い主が犬を“可愛がる”ことでもありません。人間から見て、別の人間の振る舞いがどう映るかということを基準にしてはいけないのです。
ブログ主さんはあまり深く考えずにシーザー・ミランの言葉(話さず、触らず、目を合わせず)を引用しているようですが、そのシーザーのしつけ3原則は、「運動・規律・愛情」で、規律を愛情よりも優先されるべき原理として挙げているのです。
なぜ「規律」が重要なのか?それは、犬が何が安全で何が危険かを判断するための基準になるからであり、これを教え込まないと犬は安心できないからです。人間が偉そうにできるから、などではありません。
間違ったしつけ観は「愛情」を真っ先に持ってきます。これは実は言葉としては正確ではなく、正しくは「愛情表現」です。愛情を持っていることなんて大前提ですからね。
とにかく愛でる・話しかける。これを先にやってしまうから犬は自分がどういう環境で生活しているかの認識を間違い、無駄吠えをするようになり、怖がり、凶暴になるのです。
「犬を可愛がって何が悪いの!」と思考停止した飼い主を持った犬は不幸です。犬に何が良いことで何が悪いことかを教えて、安心させてやることこそが本当の愛情なのです。
このブログ主さんは、自分が感じた印象でしか判断していません。
「彼女は優しい」⇒「優しいことは良いことだ」
「犬を可愛がっている」⇒「可愛がってるんだから犬は幸せに決まってる」
分かりますかね?
これって所謂「毒親」の考え方なんですよ。
「【私は】子供のことを思ってやっている」「【私は】優しくしている」といった独善的な思考回路こそが物事を見誤らせるのです。
このブログ主さんは犬の擬人化が悪いことだとは理解されているようですが、どうやらそれは言葉の上での話。「私は」とか「彼女は」といった、常に人間を主語にした考え方に囚われている状態は、何が犬の擬人化で、なぜそれが悪いことかとまでは分かっていないと思われます。
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