ここで私が書くことの趣旨は「人間主観から逃れられないままデタラメな方法で犬を飼い、問題行動が起きれば理想とのギャップをポエムで埋める飼い主」についてです。
取り上げる記事については批判的に書きますが、このブログ主さんが行き場のなくなった犬を保護されていることについては敬服致しますし、同志でもあります。
では、本題へ。
信頼関係って何?
この記事の中に、無駄吠えを「飼い主が信頼されていないから」と指摘を受けて落ち込んだ知人のお話が出てきます。
初めて会った人にそんなことを言うなんて、と言うのはブログ主さん。それはあるかもしれませんね。この手のことはまず飼い主同士にある程度の信頼関係がないと、指摘しても意味を成さない、あるいは逆効果になることがありますから。
そしてこの知人の方は、ブログ主さんいわく、犬とは「信頼関係が築けている」そうで、指摘した相手のことを「他人を落として自分を上げて気分よくなろうとする人」とご批判。
「飼い主と犬との信頼関係」というフレーズは、あまりに使われ過ぎていてもはや陳腐化しているところが否めません。しかし、犬を飼う上で最も大事な要素はやはりこれなのです。これを指摘した人の人格がどんなものかは私が知る由もありません。その人だってしつけはできていないくせに、知ったかぶりのコピペで言っちゃったのかもしれません。が、経緯はどうあれ、「無駄吠えは犬と飼い主の間に信頼関係ができていない」というのは、ほとんどの場合真理です。
ブログ主さんのご友人にズバっと指摘したどなたかは、デリカシーに欠けていたかもしれませんが、間違ったことは言っていないのですよ。よほど特殊な条件がない限り、犬の無駄吠えは、犬と飼い主の間に信頼関係が築けていないことが原因なのです。
この真理を指摘されても、主観的な人間は自分の感覚の快・不快を即「善悪」に繋げてしまうので、逆恨みみたいな愚かなことをしてしまうのです。
お前に何が分かると言うのか。自分だけが正しいと思うな。
と反発する方は、だったらこのフレーズのことは忘れて、これを考えてみてください。
ワンワンキャンキャン、必要もないのに吠え続ける犬を見て、幸せそうだと思いますか?
こう聞かれて「思う」と答えられる方はもはや前提が何もかも違うので、これ以降を読んで頂く意味もありません。どこか別の犬のサイトを見てフワフワしていて下さい。
ここからは「思わない」と答えた方向けです。
無駄吠えが治らない理由
そうです。キャンキャン吠えまくる犬は、他者への迷惑以前に、その犬本人が不幸なのです。危険でないものを危険と判断し、余計なストレスを感じてしまっているわけですから。
この記事で当ブログを初めて知った方のために説明しておきますが、私のしつけ論においては、「犬の無駄吠え、怖がり、凶暴性は、犬の認知錯誤によるものだから、認知を修正してやれば良い」という考え方です。「吠えたいのを我慢させる」のではなく、「そもそも吠えたいという欲求そのものが勘違いなので、正しい認識を与えてやる」ということがしつけなのです。
無駄吠え・怖がり・凶暴性がいつまで経っても治らない理由は、大きく2つ。
・成長過程で環境が大きく変わったり、虐待を受けたりした
・しかるべきしつけ(触れ合い方)を施されなかった
どちらにしても、犬は被害者なのです。
性悪説で生まれてきた犬を性善説に変える
犬を含めて、あらゆる動物は性悪説的思考回路をもってこの世に生まれます。
人間社会は自然界と違って非常に安全ですが、それでも家を留守にする時は誰でも鍵をかけますよね。これは、「世の中には泥棒という悪い奴がいる」という前提の、性悪説的行動です。人間が、自分の心内にある性悪説的な部分を明確に意識できないとしたら、それは幼少から親や環境からの知識が積み重ねられているからです。
一方、野生の本能が強く、人間よりはるかに知能の劣る犬の場合だと話はまるで変ってきます。生まれてきたこの世界は敵だらけ、という前提で本能がプログラミングされているので、犬は吠えたり噛んだりするのです。
ところが人間に飼われる犬となると、その生活の安全性は比較にならないほど向上します。でも犬にはそれがなかなか理解できませんから、飼い主が注力すべきは「お前が住んでいるこの環境は安全なんだ」ということを教えることです。これがしつけの根幹です。
実際には稀にいるとしても、「お前を触りに来る人間に悪いヤツはいない」「よその犬は敵ではない」と教えて、性悪説的思考回路を性善説的思考回路で上書きする必要があるのです。
それができないのは飼い主に犬を飼うスキルが足りなかったということです。
私が当ブログで批判する、「『犬が嫌がるものは近づけるな』という考え方は大間違い」というのは、犬の認知錯誤をそのままにしていたずらに臆病な犬にしてしまうからです。「そもそも怖がる必要はない」ということを教えることこそがしつけなのですよ。
さて、紹介したこのブログのブログ主さんは、所謂「善い人」であることには間違いないでしょう。が、「正し」くはないのです。
続きます。
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