審査員をしない明石家さんまはズルい

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上沼恵美子はM-1に必要な審査員

今回のM-1グランプリ。例のとろサーモン久保田とスーパーマラドーナ武智の暴言騒動により、上沼恵美子は前回をもって審査員を引退するはずだったのが、「だったら僕も辞める」と松本人志がなかば脅迫的に引き留めて、結局前年と全く同じメンバーが審査員を務めることになった。

その上沼、しおらしくするかと思いきや、例年にましてパワフルで荒々しい。CDの宣伝はするわ、論評の際に別のコンビのディスりの方に時間を費やすわと何でもあり。個人的にはこういうキャラクターが審査員席のひとつを占めることには大賛成である。偏ってて良い。好き嫌いがあって良い。だから審査員は複数必要なのである。

和牛が優勝できない原因

上沼にディスられたコンビとは和牛のことだが、別に彼らが何か悪いことをしたわけではない。上沼の言うように「横柄」と言われるほど態度が悪かったわけでもない(少なくとも放送上は)。が、それは、一般視聴者でありお笑いファンでもある私から見ても「必要な刺激」ではある。和牛に必要なのは、根本から姿勢を変えてしまうことだ。

技術的には改革と工夫を繰り返してきた和牛だが、スマートになり過ぎて観客の驚きがなくなってきている。千原ジュニアが堅実に笑いを取れても大爆笑が取れないのと同じである。

審査員をしない明石家さんまはズルい

審査員と言えば松本が直前にこんなツイートをしている。

松本がそのつもりで書いたかどうかは知らないが、「ショー(賞)レースを否定する人」の筆頭は明石家さんまである。さんまが審査員をやらないのは、本人曰く「そんな腕がない」からであり、そもそも笑いで競わせることそのものに反対という立場だ。

じゃあ松本は賛成しているのかと言うと、違う。元々松本も「漫才に点数なんて付けられない」という思想の持ち主である。

小さなコンテストにおける審査員には、でかい顔したいだけの放送作家みたいなのはよく見るが、M-1ほどのビッグなお笑いコンテストで審査員を務めるのは、汚れ仕事である。視聴者が共感できない評価をつけたら批判を受けるのだから。

だったらお笑いコンテストはなくした方が良い?

それでも誰かがやらないといけない。そもそも、島田紳助が企画したM-1の大会趣旨は、若手漫才師が大きく注目される場を用意するというものである。「厳正な審査」なんてのは二の次であって、年に1度、若手漫才師が全国放送で注目されればそれで良いのである。

その趣旨を理解すると、明石家さんまの審査員に対する「お前、そんなにたいしたことないやないか、と思って見ている」というコメントはかなりズルく映る。

M-1があることによって若手漫才師が注目されるのは事実で、テレビにおけるお笑い芸人の占有率が増えてることも間違いない。これがテレビにとって良いことかどうかは置いといて、そういう企画を元漫才師であり超売れっ子タレントだった島田紳助が企画するのは、道理に適ったことと言える。そして売れた漫才師は『向上委員会』をはじめとしてさんまのテレビにも多数出演、視聴率を支えることになる。

さんまが審査員をする必要はない。似合わないから。だが、だからといって審査員をバカにするような発言は頂けない。「自分には審査する能力がない」「若手に嫌われたくない」とだけ言っておけば良いのではないか。

松本がいなくなった後のM-1

松本人志はずっとM-1の審査員を辞めたがっているが、今年は今年で、松本のつけた得点がそのまま出場コンビの順位になったことが注目されてしまった。ただの権威ではなく、その眼力までが認められた形である。

もし松本が審査員を引退すれば、M-1そのものの権威ががた落ちするだろう。今のところ、松本に代わる権威なんてどこにも存在しない。出場コンビの多くは「松本の評価がほしい」のである。優勝はしたいが、それとは別にこの人に認められたい、という大御所芸人がいくら見渡してもいないのである。

「ただの権威」は審査員にとって最も重要である。その審査の眼がなお権威を強くしてしまったわけで、ますます松本は辞めにくくなったはずだ。

和牛、M-1やめるってよ

ところで、まだ『反省会』を観ていないのだけど、和牛がM-1を引退するらしい。非常に残念だ。だが、和牛はM-1を意識するあまりに優勝できずにいたというようなジレンマを抱えていたのではないか。M-1優勝に足りないものはM-1から離れることで得られるのではないかと、私も特に今大会を見て感じた。

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