西野は一線を越えてしまった?
岡田批評に対し西野は、
プペルの二次創作なんて大量にあるわけじゃないですか?」とし、具体的に「グッズだけじゃなくて、ついには、プペルのバスとか、プペルの幼稚園とかができてますが、あれは僕ら(公式)が仕掛けているわけじゃなくて、ファンの方がやっているやつです
と反発。いやいや、ここで言う二次創作とはそういうことじゃありませんから。キャラをプリントしてグッズやバスにすることを二次創作とは言いません。観た者が、消化しきれない、それこそ言い知れぬ感動が創作衝動を掻き立てて創られるものが二次創作なんです。
その究極の形は、ラヴクラフトの『クトゥルー』でしょう。恐怖神話であるこの作品は、読む者の心を捉え、ラヴクラフトの死後もファンが続きを書いてしまい、それが正式な本編として認められてしまった、言わば「1.5次創作」の例です。
ラヴクラフトの描いたクトゥルー世界から抜け切れず、自分なりの続編を書かずにはいられなかったわけですね。
一方のプペルは極めて【消化の良い】作品で、「プペルみたーー!感動したーー!あー、お腹減った」で終わってしまうから二次創作が生まれないのです。泣かせることを意図した作品は、泣かせたらそこがゴールなのですよ。
このトンチンカンなリアクションはまだ良いとして、
「サムネのデザインから始まって、今回の岡田さんのお仕事はヘイトを集めて再生回数を稼ぐ売れないyouTuberの仕事で評論に値しない。あのポジションを守りたいのであれば、もう少しだけ視野を広げて、勉強された方がいいと思います」
この文言はただの罵倒です。マジで言ってるのならや無礼で、やはりただのバカってことでしょうし、プロレスならいささかタチが悪い。しかしその他の言動も考慮すると西野は恐らく本気で言っているのでしょう。
本気で言っているのだとしたら、『岡田斗司夫ゼミ』をほとんど観たことがないということですね、多分。これ、この後に書くことの大きなポイントになります。
「戦略あって思想なし」
「戦略はあっても思想がない」これが岡田の、キングコング西野とオリラジ中田2人に共通する評価です。
これをちょっと掘り下げてみましょう。
「思想がない」これはおそらく西野本人も認めるところでしょう。お笑いを始めたのは「スターになりたかったから」と彼は語っており、明石家さんまやダウンタウンのお笑いが好きだったから、ではないのです。それはキングコングの漫才を見てもよーーーく分かります。
「お笑いって漫才でしょ。漫才って突っ込むんでしょ。ツッコミって『なんでやねん』って言うことでしょ。テンポの速い漫才がウケるんでしょ」と言うのがキングコングの漫才で、間もクソもありません。ただただ反復練習したことを客の前でもやるのが彼らの漫才であり、コアのお笑いファンである私などはくすりともできませんでした。
漫才だけではありません。トークにおいても西野は何も考えていません。大して面白くないことを物凄く面白いようなテンションで喋り、人の喋ることに対しても大して面白くもないのに大げさに笑う。「あ、今イジられてる」と思ったら立ち上がって大声を上げる。岡田との対談でも、大声で笑う⇒ナルホドナルホドナルホド⇒大声で笑う⇒タシカニタシカニタシカニタシカニ、このルーティーンの繰り返しで極めて不快なものでした。
これどういうことかと言いますと、西野は「咀嚼しない人」なんです。お笑い、絵本作り、事業戦略、何から何まで「イイネ!」と思ったらコピペして使う。それが彼のやり方であって、どこにも【本体】がありません。この「本体」が思想ということなんです。
オリラジ中田については過去に当ブログで同様の指摘をしております。
岡田が『岡田斗司夫ゼミ』で書籍を紹介する時は、その本を噛み砕いて噛み砕いて咀嚼しきって自分のものにした後、「面白いから紹介したい、こんな発見をしたから発表したい」という高い熱量を含んだ衝動とその咀嚼のベースとなる圧倒的知識量があるから面白いのだが、中田は完全にビジネス。ただ書籍の一部をコピーしてそれを大声とでかいテロップで紹介すると言う、それこそユーチューバーメソッドである、と。
つまり、この2人は、「あっちにあった物をこっちに持ってくる」という作業をしているだけであって、自分ではほとんど創造していないのです。
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