毎年恒例、漫才の祭典『THE MANZAI』。その中で特殊な形で注目を浴びるのがウーマンラッシュアワーの政権批判漫才。去年、別のブログで書いたものと、今年書いたものを合わせて置いておきます。
ウーマンラッシュアワーの漫才を「時事ネタ」と呼ぶことに極めて強い違和感。LGBTも沖縄基地問題も原発も、実際に使われる「時事」という言葉の意味から言えば、スパンが長すぎて問題も大きすぎる。大体時事ネタなら去年と同じことは言わないだろう。
時事ネタとは爆笑問題の漫才のようなものを言うのであって、ウーマンラッシュアワーの漫才は「政治ネタ」である。もっと正確に言えば、単に「政治の話」であって、ネタですらない。
ウーマン村本はちょいちょい爆笑問題と比較されるが、実は爆笑問題は漫才のネタに政治思想はほとんど入れていない。ありとあらゆる時事ネタと笑いとを「アイロニー」という接着剤でくっ付けているのが爆笑問題の手法である。
ネタを政治や社会問題に限定しても、それを漫才にするためにはそこにアイロニーが必要なのだが、ウーマン村本にはそのための頭脳がないらしい。5分の時間をもらったら3分は好きなことを言わせてもらう、ということをネット番組でも言っていたが、それは漫才ではない。
町内会のお祭りなんか行くと、フランクフルト屋や綿菓子屋の露店のテーブルにずらずらーっと「アベ政治を許さない」のペラがぶら下げられてたりするが、ウーマンラッシュアワーの漫才はまさにこれ。俺は祭りを楽しみに来たんであって、政治説法を聴きに来たのではない。
ウーマン村本や茂木健一郎に言わせると、日本の笑いは政治や社会問題を取り入れないので「レベルが低い」となるらしい。なぜ欧米の笑いを当たり前として基準に据えるのか甚だ疑問である。
笑いに政治や社会問題を持ち込むのは、映画やドラマのパロディーや初期の「熱湯風呂」なんかと同様のヨゴレである。とりあえず注目を集めやすいし、皮肉るというのも簡単。笑いが取れやすいからやっているだけのことだ。
ウーマン村本、視聴者から「昔みたいなネタもやって」という意見に、「単独ライブではちゃんとバイトリーダーもやってる」と。いつまでバイトリーダーネタやっとるんだ。
ーーーーーここまで去年、ここから今年ーーーー
まいど言ってることだけど、「人を笑わせるために政治ネタという材料を使う」のと「政治的主張をしたいがために漫才と言うフォーマットを使う」のは違う。
奇しくも時事ネタ漫才の爆笑問題・太田はウーマン村本を擁護してるんだけど、その爆笑太田は本当の風刺漫才ができる芸人なのよ。これは「だまし絵」と「偽装JPGファイル」の違いなのよね。前者は絵そのものが主張であり芸になってるが、後者は絵のフォーマットに全く関係ない情報を紛れ込ませてるだけ。
(そんなのどっちでもいいじゃんというリプに対して)
「どっちでもいい」なんてことはない。THE MANZAIにおけるウーマンラッシュアワーは、フランス料理のコースでソルベの代わりにおはぎが出てくるようなもの。
M-1を始めとするお笑い賞レースの本番前になぜ前座を入れるか。メインディッシュが最も美味しく感じられるよう、胃を活発にし、舌を鋭敏にするためだ。ウーマンラッシュアワーは流れを寸断してしまう。
そもそもなんでお笑いと政治ネタを融合させたがるのかサッパリ分からん。小生は政治社会問題系の番組をネット含めて毎日のように見るし、同時にマニアレベルでお笑い番組も見る。でも同時に見たいなんて思わない。
漫才と言う形でないと政治が理解できないヤツは、そもそも政治に興味なんて持たんでもええがな。アホのままおれよ。
茂木健一郎みたいに「アメリカでは~」「イギリスでは~」と言いたがるヤツがウーマンラッシュアワーみたいな漫才を有難がるんだけど、西洋のお笑い文化は、そもそもレベルが低いから有名な存在をいじって笑いにするヨゴレ芸に頼るんだよ。
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