アントニオ猪木と仲本工事から考える「生き方」と「死に方」の話

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テレビ

サムネイル画像情報:Ogiyoshisan – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24778544による

 

アントニオ猪木の死去について、個人的になんだかすんごく琴線に触れるものがあったんですが、プロレスなんかほとんど観たことないし、特に猪木ファンってわけでもなかったんで、わざわざ書くこともないか……と思ってたんですが、先日、ザ・ドリフターズの仲本工事が交通事故で亡くなったことをきっかけに書きたくなったので書き残しておきます。

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高齢者の交通事故は「老化現象」

若い頃はね(子供と言っても良いほど若い頃です)、高齢者が交通事故で死んだとか火事で死んだなんてニュースを目にすると「人生の最期がこれなんて、一体何のために生きてきたのか分からない」なんてことを思ってたんですよ。

ところが、自分が齢を追うにつれその考え方はいつしか180度ひっくり返ります。特に何がきっかけというわけではありません。単に人生経験を積んだ結果、「人生は死に方ではなく、生き方である」という哲学が染みついてたんです。

仲本工事の事故も、とりあえずの印象としては危険な交差点をあまり注意せず横断しようとした結果のことであり、高齢者特有の判断力の低下によるものだったのでは、と。私はザックリ考えるタイプなので、「交通事故に遭いやすい」のも「老化現象」のひとつだと認識しているんです。とするなら、81歳という年齢を考えると「突然の別れ」でも「早すぎる死」でもなかろう、と。安倍さんみたいな最期ならともかく、交通事故なんて普通の死に方でしょうよ。交通事故だと本人が死ぬ準備もできていない?いやいや、一定年齢になったら健康であっても終活はしておきましょうよ。

「どう死んだか」ではなく「どう生きたか」

私は子供の頃からかなり熱烈なドリフファンで、『8時だヨ!全員集合』『ドリフ大爆笑』はもちろん、ドリフ映画もほとんど観ましたし、ドリフのCDは今でも車で聴いています。そんな私の頭の中では、仲本工事の活躍する姿が克明に蘇ります。『ドリフ大爆笑』のバカ兄弟、雷様、器械体操。多分人よりは少し通であろう私はさらに、彼のコケ方が大好きでした。よく見るとすんごいアクロバットで危険なコケ方している時が結構あったんですよ。

というように、細かい宗教論理的な話は置いといて、「その人のことを思い出す」のが供養になるのではと思っています。つまり、「どう死んだか」は割とどうでもいい話で、「どう生きたか」こそが大事なのでは、と。

アントニオ猪木の特異なキャラクター

私が子供の頃、うちのばーさんがどういう訳かプロレスが好きで、金曜8時は『ワールドプロレスリング』を観るのが決まりだったんですよ。ところが私はプロレスというものにとんと興味がない。毎週、猪木だの藤波だのタイガー・ジェット・シンだのスタン・ハンセンだの見せられても、一向に面白いなどと思わなかったのです。ちなみに同時間帯の裏では『太陽に吠えろ』や『3年B組金八先生』などが放送されているというレッドオーシャン枠でしたね。『太陽に吠えろ』みたいな辛気臭いのも嫌いだったので、私が自由に観ていいとなれば金八を観ていたでしょう。結局、ちゃんと観たのは再放送でしたが。

ま、そりゃともかく。

そもそもプロレスの事を格闘技とは思っていないので、格闘家としてのアントニオ猪木には何の興味もありません。しかし、年を追うにつれ、猪木というキャラクターには徐々に趣を覚えるようになりました。何が、ってわけではないのですが、猪木の放つあの異様なオーラみたいなものは多くの人が感じ取っていたのではないでしょうか。好き嫌い関係なく、テレビに出れば目が行っちゃう、そういうキャラクターだったわけです。

猪木は最期まで猪木を見せた

そのアントニオ猪木というキャラクターの偉大さ…というか特異性?は、死に際に極まったような気がするんですよ。

私は本来ならこういうの嫌いなんですよ。あんたもプロのエンターテイナーならわざわざ老いた醜態を晒すな、と。もうそろそろヤバいってタレントが無理やりテレビに出る光景とか大嫌いでしてね。しかし、実に不思議なことに、猪木ならアリなんですよね。あ、「猪木ならアリ」とかややこしいことを言ってすみません。

この「最期の言葉」という動画。高齢者を見送ったことのある人ならよくお分かりでしょうが、亡くなる前の典型的な姿です。ところが、猪木が少し一般人と違うのは、目にまだギリギリの輝きがあって、表情を作っているところ。

つまりこの人、

心臓が止まるまでサービス精神だけは機能していた

ってことなんだと思うんですわ。

親や愛犬が死んでも泣かないサイコパス気味の私なんですが、この猪木の散り際というのは、もうほんとにクソみたいな陳腐な表現を敢えて使いますが、「勇気をもらった」ような気がするんです。

侍というのはやたら「死に方」を模索するものですが、猪木は生きている間も、そして死に際も、何もかもを人に見せることによって存在を証明したのだな、と。

 

前半で「死に方より生き方だ」って話をして、後半では「死に方が見事」という矛盾したお話でした。

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