今後書こうと予定していることの前に、一般論寄りの前提が必要になる。
私が政治家の能力を測る「定規」
最近の私の発信から、「アンチ吉村」と言う人がいるが全く違う。私が吉村氏を批判している根拠は、吉村氏が日本維新代表になるずっと前から続いているものであって、当方の人を測る「定規」は一切、全く、どこも、何一つ、変わっていない。
私の政治家や政党への評価基準の根幹部分には【言語能力】がある(もちろん、政治家にとってだけではないが、特に政治家、である)。私を古くからフォローしている方ならよくご存じかと思う。政治家にとって言葉は命だ。よく都合の悪い質問を「仮定の質問にはお答えできない」と応える政治家がいるが、あんなものは逃げでしかない。そんな理屈が通るなら中国への脅威にも備える必要はなくなってしまう。政治家は、頭の悪い庶民には想像できない仮定を前提に備えなければいけないし、改革派の政治家は仮定の理想に向かって邁進し、その「仮定」を実現してこその改革派だ。
では言語能力とは
では政治家に必要な言語能力を測る方法はと言えば実に単純なものだ。
(1)質問に対して答えられているか
こうやって書くとバカみたいだが、一般人に普通の会話を聞いていてもこのシンプルな質疑応答という作業ができない人は物凄く多い。
「お寿司は好きですか?」という質問に対し、「みんなお寿司大好きですよね」というのは回答になっていない。だが、「お寿司」というキーワードだけは使われているので、バカは「お寿司について話し合った」ことにしてしまうのだ。この質問に対する回答は「はい」か「いいえ」のどちらかでしかない。
政治家で言えば、「その時期が来たらお答えする」「適切に判断していく」「出来る限りのことをやり、善処する」と言った、内容がゼロの回答をする人は非常に多い。これを読んでいるあなたにとって身近な政治家でも思い当たるだろう。
(2)しかるべき質問ができるか
質問を投げる相手は、別の権力者━━政治家、官僚、マスコミ、特定の民間人、あるいは不特定の国民だったりする。討論の場では、誰かの質問に答える形で質問し直すというケースが多い。「しかるべき質問」とは、論点を射抜くような質問のことである。例を挙げるのは難しいが、例えば橋下徹が政界に乱入した際には、大阪府民に「10年後の大阪はどうなっているか」(という文言を使ったかどうかはともかく)を有権者に投げかけた。まさにこれが橋下が大阪政界に登場する意味だった。
(3)発言に矛盾はないか
これが最もバカ発見器として機能するかもしれない。矛盾を発見するためには、その人の発言をいったん1枚の俎板の上に並べなければいけない。この俎板はパソコンで言うメモリのようなもので、ある程度の短期記憶力が必要なのだ。ひろゆき氏などはこの作業を大得意とする人の典型で、「あなた、1年前には逆のこと言ってますよね」と言うやり方で相手を批判する。鳥頭のバカは記憶力がないので、1年前のことなど忘れているのだ。あるいは、それを憶えていて、俎板の上に載せても「何が間違ってるのかわからない」というバカもいる。それはメモリよりCPUの問題だ。
(4)有権者の心を動かせるか
要するに、言葉のチョイスや話し方、演技力などだ。これを4番目に持ってきたのは、基本的には(1)~(3)が出来る人でなければ(4)に意味はないからなのだが、例えば高市総理みたいなキャラクター型の政治家は(4)優位と言っていいかもしれない。もちろんそういうタイプの政治家にはしかるべきブレインが必要なのだが、それが見当たらないのが高市さんの弱点だ。
ではなぜ、言葉が大事なのか
まず一般論として、言葉は思考のツールである。正しい言葉によって概念化された事物を論理(因果関係)で繋げ、物事を抽象化し、本質を言語化し、見えるものを分析してまだ見ぬものを想像し、過去を反省して未来を予想する。
また、人々は言葉をもって契約を交わす。国家運営に目を向けると、憲法を含む法律は全て言葉で紡がれる。言葉が善人の安全や生活を守り、言葉が悪人を裁き、言葉が権力者を縛るのである。
一例を挙げよう。れいわ新選組の山本太郎氏が園遊会において天皇陛下に手紙を手渡しするという事案が発生した。これについて、「天皇陛下に手紙を手渡しするなど不敬極まりない!けしからん!」と言う意見は単に感情を言語化したものに過ぎない。だが、法に着眼点を置いて正しく言語的抽象化をすると「天皇の政治利用」となり、一切感情を動かすことなく「違憲行為」ということが指摘できる。
おそらくれいわの支持者の相当割合は山本氏のこの行動を支持しただろう。彼ら自身がそう言ったかどうかは知らないが、「山本代表は正しく、その思いは崇高だから!」ということになりそうだ。もちろん言うまでもなく、どのような理念を持とうが、法によって禁じられていることはやってはいけない。「その集団の思いの正しさ」という相対的価値観は、言葉によって紡がれた「法の正しさ」という普遍的ルールと合致するとは限らないのだ。
他人をコントロールする武器としての言葉
以上が言葉の理性的な役割であるなら、(4)は言葉の感情をコントロールする武器だ。
政治の文脈においては、法とは関係のないところでも言葉の重要性が問われるシーンがある。例えば、豊洲市場移転問題における小池百合子東京都知事の「安全ではあっても安心ではない」という言葉を憶えている人は多いだろう。しかしこの言葉、いったいどういう意味があるのかは分からない人もまた多いだろう。科学的に安全だとしても感覚的に安心できていない人がいることが問題なら、それを説明して実行するのが政治家というものだと思うが、まあこれでなんとな~く、「そうなのかな」と思わせるのが小池都知事のすごいところでもあり、ポエムという形で人の感情をコントロールする言葉の例である。
ポエムが論理を越える時
例によって『銀河英雄伝説』より。ヤン・ウェンリーの名言(の主旨)を紹介する。
世の中には価値観が二つある。『人の命よりも尊いものがある』『人の命ほど尊いものはない』。人は戦争を始めるとき前者を理由とし、終わらせるときに後者を理由にする。それを何百年、何千年も続けてきた……
同一の戦争でも始める時とやめる時に違う論理が使われる。場合によっては、そのどちらも同一の政治家だったりする。要するにダブルスタンダードだ。
大事なことは、ここで使われる名目は極めてポエム的であり、論理が無視されがちだという点だ。で、なぜこんな言葉を使わなければならないかと言えば、戦争を始めるにしても終えるにしても、自国民に対して説明が必要だからだ。これは専制国家であっても免れない。
そして戦争を始める時も終える時も、国民は感情が不安定になっており、政治家のポエムで動かしやすい状態だ。つまり、矛盾する発言であっても、大衆はその時の感情でそれを受け入れてしまうことがある、ということだ。
ポエムは「一時的に大衆の感情を掌握する強力な武器」だが、同時に「後で自分を縛る枷」にもなる。例えば橋下徹はポエムを使いつつ、常にその裏側に具体的な政策と期限、そして何よりやり切る覚悟をセットにしていた。だからこそ「有言実行」になった。一般的なーーつまり凡百の政治家はポエムだけを残して中身を捨てているから、政治不信になるのだ。
「有言実行」を体現した橋下徹
「戦国時代なら権力闘争は物理的な命がけだった。権力者になるためには誰かの首を切り落とさなければならなかった。だが今は違う。刀や矢ではなく、論戦を交わして選挙で選ばれることによって権力者になる」
橋下徹がよく言っていたことだ。
我々が言葉を重んじなければいけないのは、日本が法と言論をもって社会を運営せんとする法治国家であり、我々はその住人だからである。そして政治家はその法を作る公僕である。
その政治家が、言葉を軽んじ、約束を破り、民主主義のメソッドを恣意的に崩したりするようなら、政治家として失格と言わざるを得ない。
政治家としての橋下徹は、普通なら到底できそうもないことを、それを「なぜやらねければいけないか」と「どうやって実現するか」をセットにして宣言し、実際にやり遂げた。彼の発信は(刺激的ではあるが)常に論理が明瞭だった。「善処する」「適切に判断する」と言ったフレーズはめったに聞かれない。「大阪のため」「日本の未来」と言った言葉は多くの政治家にとって、「拝啓」「敬具」のような特に意味のない添え物でしかないが、橋下が言う場合は本気でそれらを考えている時だ。彼がついた嘘は「20000%出馬しない」くらいのものだ。この、言葉に責任を持って改革を断行した橋下の姿勢こそが「維新」のブランドを作り上げた。
彼が言うことは当然自分を縛り付けるが、それをやり切れば大きなプラス評価につながる。その全く逆で、その場の空気でテキトーなポエムを詠んでしまうと、自分の思わぬ形で自身を縛りつけることになり、挙句実行できない上に、その時また別のポエムで誤魔化し、評価を下げることになる。


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