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南丹市男児遺棄事件から考える——「継父リスク」は本当にあるのか?

ニュース

2026年3月下旬、京都府南丹市で11歳の男児・安達結希さんが行方不明となり、約3週間後に山林で遺体となって発見された。父親の安達優季容疑者(37)が死体遺棄容疑で逮捕され、「車で学校まで送った後、別の場所で殺害した」との供述が報じられている。痛ましい事件だ。

この事件は、ネットを中心に大きな波紋を呼んだ。シングルマザー家庭や再婚家庭への風当たりが一気に強まり、「継父が危ない」「子連れ再婚は禁じるべき」といった声が広がった。一方で、政治家の音喜多駿氏はXで冷静なデータ分析を試み、自身も継父である立場から「属性だけで危険視するのは誤り」と主張した。

しかし、本当に「公平」に見えているだろうか。

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なぜこの事件だけが特別視されたのか

厚生労働省の統計などによれば、親による子どもの虐待死は年間およそ50件程度発生している(心中事件を除くとその半数程度)。実父・実母によるケースが圧倒的多数を占める。どれも同じように悲惨で、子どもにとっては「殺される」という究極の悲劇に違いはない。

それなのに、なぜ今回ばかりがここまで注目されたのか。

それは、世間が「最初から最後まで一部始終を見ていた」からに他ならない。行方不明報道から捜索、遺体発見、逮捕までの過程がリアルタイムで共有され、想像を掻き立てる「ストーリー」が生まれた。事件そのものの深刻さ以上に、メディアやSNSがもたらす「追跡劇」のような視聴体験が、感情を増幅させたのだ。容疑者である継父の犯行を何度も何度もトレースして「ここに謎がある」などとさも重大なことのように言うが、そこにあるのは「本当の情報の価値」ではなく、ただの「視聴率の種」だ。

一方で、他の虐待死事件の多くは「突然の悲報」として消費され、すぐに忘れ去られる。公平に扱うべきすべての子どもの命が、実は「物語性」の有無で扱われ方が変わってしまう——これが現実だ。

本来なら個別事案としての話はそこそこで切り上げて一般論に移し、毎年どのくらいの子供が家族の虐待の犠牲になっているか、それらを防ぐためには何をすれば良いかを考えることこそが倫理道徳であるはずだ。

簡単に言えば、子供の命の重さはニュースバリューによって恣意的に変えられているというわけである。

 

音喜多氏の主張と、統計が示す「継父リスク」

 

音喜多氏は事件直後のポストで、厚労省の虐待加害者統計(実母48.3%、実父42.3%、継父・養父5.1%)を挙げ、「加害者の約9割は実の親。継父が危ないという印象はデータと乖離している」と指摘した。自身が継父である経験も交え、「属性だけで危険視するのは問題の本質から目を逸らす」と訴え、ステップファミリー支援の強化や共同親権推進を提案している。また、同ポスト内で「継父だから虐待するわけではない」とも述べている。

ここに違和感を覚える人は少なくない。過去の国内外の研究(シンデレラ効果研究など)では、継父による虐待リスクは実父に比べて数十倍というオーダーで高いことが複数回、統計的に示されている。重篤事案(虐待死や性加害)に限れば、その傾向はさらに顕著だ。

もちろん、すべての継父が危険というわけではない。大多数は真摯に子育てに取り組んでいる。しかし「率」で見れば、リスクが無視できるレベルではないのも事実である。

 

野生の遺伝子と、私たちが目指す「人間性」

野生動物の世界では、オスが子連れのメスと出会った際、まずその子らを殺す行動がごく普通に見られる。メスを早く発情させ、自分の子を産ませるための戦略だ。人間も、根本的にはその「ケモノの遺伝子」を持っている。この話は当ブログで過去にも触れている。

文明や倫理で抑え込もうとしても、完全に排除できているわけではない。私たちはまだ「人間性」を獲得する途上にあるケモノなのである。

「継父だから虐待する」という単純な因果ではない。しかし、血のつながりがないという事実が、生物学的な抑制メカニズムを弱める可能性は、科学的に無視できない。

実は音喜多氏自身、それを重々分かっているのだろう。報道される子供虐待死事件は、その母数を考えると、圧倒的に継父や内縁の夫によるものが目立っているのだから。だからこそ彼は次に紹介するようなポストもしているものと思われる。

 

それでも、音喜多氏のもう一つの言葉は「全くその通り」

 


一方で、音喜多氏は別のポストで、こうも述べている。

永遠の2番手を受け入れる覚悟がなければ、連れ子再婚はするべきではない

これについての私の引用ポストを貼っておく。

その通り。新しい家庭を築きたいと思うのなら、その中心には子供を据えないと幸せな家庭にはならない。2人デートをしたいなら、同じ数だけ「こぶ付きデート」を重ねて、子供と心が通じ合わなければ結婚しないと決めておくのが良い。

本来ならこれは「連れ子再婚の鉄則」であるべきなんだが、これはあくまで「べき論」であって、元々しかるべき倫理観を持つ人だけのもの。親同士がちゃらんぽらんで事件にならない程度の虐待があっても表には出ないだろうし、別に親が責任を取ることもない。残酷な現実である。

結婚とは、単にオスメスが結ばれることではなく、「家族を作る」こと、そして「その家族を運営し続ける」ことだ。特に若い女性は、恋愛成就のゴールとして結婚があり、それはイベントであると考えがちのようである。まあ、最近はそこまで短絡的に考える女性も減ったとは思うが、結婚情報誌の主な読者が女性であることからもまだそういう文化はあるのだろう。

しかし、先述の通り、結婚を「男女が結ばれるイベント」ではなく「新規で家族を作り、それを維持すること」であるなら、「点」ではなく「線」だということになる。そこに子供が自然発生した場合は特段意識することはないが、ステップファミリーの場合、その「線」は、連れ子と言うペンで引かれるべきだろう。

 

最後に

南丹市の事件は得られる課題は以下のようなものだ。

  • ニュースバリューによって作られた即席の倫理で悲惨な事件を解釈しようとしていないか
  • 生物学的リスクを直視しながら「人間らしい家族」を築けるか
  • そして、弱い者を守るために、私たちはどこまで「ケモノの遺伝子」を乗り越えられるか

そしてこの話は、ちょっと前に書いた当ブログ記事につながる。

皆、「感情を吐露」したり「犯人の断罪」はしたりするが、これからの社会を主体にした「対策」を考える人は稀だ。

俺はちゃんと考えてるからな!!

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