(初投稿2018/04/15)
土俵上のLGBT
『ワイドナショー』で、土俵の女人禁制を俎上に上げた際の古市憲寿氏の発言について。
「これからはLGBTの問題もあって」
と氏は仰っていましたが、これ相撲の女人禁制の文脈で扱うことですかね?LGBTがどう扱われるかは確かに問題ではあるんですが、相撲で扱うには話がでかすぎるんですよ。つまり、土俵に上がる前に、公衆トイレや大衆浴場でどちらに入るかで悩んでいるのではないですか?
オリンピックにおけるLGBT
スポーツで言えば、リオ五輪から、LGBTの人が自分の精神と一致する「本来の性」で出場が認められているとのこと。
その具体的な要件は、
・自分の「本来の性」と「向こう4年間性転換手術はしない」ことを宣言する。
となっているらしいのですが、これって言い換えれば、5年間女性として生きる覚悟さえできれば、190cmの元男性が女性として100m走に出場することも可能になるわけですね。男性ホルモンの制御によって筋肉量は落ちるものの、生まれ持った骨格はそのままで良いわけです。
でも問題はそこじゃなくて…
別に、だからといってこの制度を批判したいわけではありません。LGBTというのはかくも複雑でデリケートな問題であり、土俵と言う半径数mの問題ではないということです。蛇足ながら申し上げておくと、スポーツというのは同性同士であっても不公平はあるし、差別の最たるものでもあるという捻くれた認識を持っているので、個人的にはスポーツにおけるLGBTの問題というのは決して大きなものではありません。
性別による差別をなくすための究極の状態は、「性別がなくなる」こととなるでしょうが、自然に任せていればそれは「億年」という単位の時間が必要になります。価値観の変化と医療技術の進歩で、ひょっとしたら半世紀後に実現できている可能性もないわけではありませんが。
論点は、「文化と合理性の対立」
話を元に戻します。
土俵の女人禁制は、「文化と合理性の対立」の問題ではありますが、LGBTを持ち込むべきではありません。論点のまとまりがなくなるからです。
私がこの問題でくどく主張しているのは、議論の材料があまりに単純化されて、乱暴な言葉のやり取りでしかなくなっている、という点です。
「だって、人の命が関わっているじゃないか」
と言うのであれば、先の投稿でも書いたように、文化的価値を持つけど建物としては脆弱な城や寺社仏閣はどうするのかという問題が出てきます。岸和田のだんじり祭を筆頭に、日本国内では毎年のように祭りで死者が出ているという事実も無視できません。
でもそれらに関しては誰も大きな声を上げようとはしません。「それはそういうものだ」と納得しているのです。
つまり、「人命至上主義」も実に恣意的で、叩きやすいものを叩いているに過ぎない、というのが私が観察して得た結論です。
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